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第1章

悔恨と懺悔の日々

──天が与えた私への試練──

頭だけで考えても解決はしない

私は乱の生涯を生きぬき、おそらく乱のなかで死んでいくに違いありません。

私はそのように宿命づけられているのです。宿命というのは天声によって与えられた使命ということです。すなわち、人類救済に命を捧げる使命ということです。

私は多くの人に、天声に沿って「人間、頭だけではなにも進まないよ」と導いてまいりました。

獄につながれ、厚い壁にさえぎられた十有余年、私はそのなかで、今度、生きて獄より出られたら、獄の中で蓄え、艱難辛苦(かんなんしんく)のなかで身につけた知恵を惜しみなく人々に与えようと心で誓いました。

獄の中では決して堂々巡りにならないように、天声の啓示やひらめきを、思考を積み重ねるようにしてノートに記していたのですが、そのノートは出獄するときに没収されました。それでも、私には少しも困ることはありません。天声は私の(はら)に深く刻みつけられているのです。

一度刻まれた天声は、しばし瞑想をしている間に必ずよみがえってまいります。また、獄中で得た知恵は私の(はら)に刻まれております。どんな局面においても、決して消えることはありません。

天声で、人生は「学んで知る」ところではなく、「()って()く」ところと示されています。真の人類救済は「知る」ことで成るのではなく、「()る」ことで成るのです。

釈迦やキリストも「(ぎょう)」によって人類救済をしようとしました。しかし、後世の人が、仏典・聖書の文字として残したため、「知って学ぶ」ことで救済されると人々が考えました。その結果、釈迦・キリストの目ざした救済は成りませんでした。

私の人類救済は知ではなく「(ぎょう)」によります。

「行」ということは、行動の「(こう)」であり、なにかを行う「(ぎょう)」ということです。とにかく「行」を行うことが大切なのです。このことについては後述します。

本章では、私が獄中から戻ってきてから、真剣に再起の道標(みちしるべ)を求めて思索を繰り返したことについて述べたいと思います。

私の持論である「(おも)いの()くままに、即実行する」ということは獄中ではできません。また、なにかに行きづまったらまず体を動かしてみるということも、できませんでした。

かつて、私は人々に悩み解決法として次のように話してきました。

「人間はよろこびの表現体です。そして人間は自然の一部でもあります。ですから、自然の法則に沿って、リズムにのることでなぜだか、よろこびが()いてくるのです。

そして、リズムにのって身体を動かしたとき、頭がからっぽになり、気がつくと、いままでの悩みが消えています。そのように人間はできています。それが人間はよろこびの表現体であるということです」

私の場合に当てはめても、いまこそ人助けのために汗を流すときが来たのです。

そのことを私は決意しました。

《 目次 》
◆第1章 悔恨と懺悔の日々
 ──天が与えた私への試練──
◆第2章 絶望からの再起
 ──自らの役割を果たすために──
◆第3章 それでも「天の声」は聞こえた
 ──反省のなかの裁判レポート──
◆第4章 人がよろこぶ行為は自分のよろこびとなる
 ──他人の痛みは自分の痛み──
◆第5章 人間の絆こそ心のエネルギー
 ──美しき情の世界──
◆第6章 使命感をもって生きる!
 ──私の考える人類救済──