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第6章

使命感をもって生きる!

──私の考える人類救済──

私自身こそ迷える衆生だった

私は戦争で父を失い、母は女手一つで私を育ててくれました。

母は私を手塩にかけて愛情深く育ててくれましたが、母が働きに出ている間は、孤児のように独りだけの世界をひっそりと生きていました。私は、高校、大学ともに夜学で働きながら学びました。

苦学といえばきれい事に聞こえますが、酒と遊蕩(ゆうとう)に明け暮れた青春時代でした。そのころ、故郷を離れた寂寥(せきりょう)に加えて、人生に対して懐疑と虚無感を抱いて退廃的な毎日を送っていました。心を寒々とした思いが吹き抜けていきました。自分を支えるバックボーンが失われたような毎日で、そんな自分がいやでたまらず、自己嫌悪にさいなまれながら野良犬のようにさまよっておりました。

そのころ、大学の先輩にすすめられて酒の味を覚えました。はじめて酒を口にした夜、したたかに酔いました。はじめて経験する本格的な酪酊感は、暗い虚無感や人生の挫折感が一時的に埋められたような気がしました。飲むと浮き浮きし、どもりの癖も少しやわらいだ感じがしました。

酒の味を覚え、その後一人でもよく飲みに出かけたものです。最初のうちは週に1回ていどでしたが、そのうちに毎日出かけるようになりました。孤独のさびしさと引き換えに、だれにも束縛されない自由と解放感を手に入れたのでした。

私にとって都会の一人暮らしは見るもの聞くものが珍しく、経験することはすべて新鮮で、好奇心の強い私は放蕩(ほうとう)をエスカレートさせていきました。

職場も休むことが多く、上司や先輩たちから厳しい叱責を受けるまでになりました。荒れた生活、際限のない放蕩は、私の頽廃(たいはい)をますます助長するように私のなかで日々激しさを増していきました。

「そんな生活を続けていたら立ち上がれなくなるぞ」

見るに見かねて忠告してくれた友人もいました。

《こんな暮らしをしていたのでは破滅してしまう》

自己嫌悪にまみれながら、かすかに残っている良識が私にささやくのでした。しかし、その思いを踏みにじるように酒のなかに溺れていきました。

自責の念となって浮かぶのは、故郷(ふるさと)にいる母のことでした。母は自分を犠牲にして私を育ててくれたのです。その母のことを思うと一瞬、心のへりを痛みが走りぬける心地がいたしました。

母は私を育てるために洋裁の専門学校に入りました。母が学校を卒業するまでの間、母の実家に預けられました。

母の実家は、山口市に隣接する寒村といっていい小さな農村でした。母と離れて孤児のように暮らした幼児期が、私の性格を内向的で人見知りの激しい内向きの人間にしてしまったようです。しかし、母と離れて暮らした幼児期に悲しい思い出が少ないのは、優しい伯母のおかげだったといまでも思い返されます。

母の実家には、母の兄嫁である義理の姉にあたる伯母がいて、私は幼い日の一時期をこの伯母の手で育てられました。小学校教師の身分を捨てて農家に嫁いできた働き者の女性で、教養がありましたが、すごく心の温かい優しい女性でした。

私は、母の手を離れて孤児のように暮らしましたが、孤児のさびしさは感じませんでした。それは伯母の観音様のように優しい人柄のおかげでした。

実家には、2人のいとこがおり、同じ年のいとこにはずいぶんいじめられ、意地悪をされましたが、悲しい記憶があまり残っていません。伯母が自分の子どもとわけへだてなく、私に接してくれたためだったと思います。もちろん、実母には激しい思慕の情を感じますが、この伯母のことも、深い懐かしさを伴って思い出されます。

母は信心深い人で、宗教的な土壌が私の内部につくられていたのは多分に母の影響があったためだと考えています。母は、時間があれば寺に行って手を合わせていました。母の居場所を捜すなら、お寺に行ったほうが確実なほどでした。

私も物心ついたときには、母に連れられて寺参りをしておりました。やっと歩けるようになったころ、秋穂の霊場八十八ヶ所を母と歩いた記憶が墨絵のようにぼんやりと私の脳裏に刻まれています。ときには手を引かれ、ときには母に背負われて、果てしなく感じられる霊場巡りの日々を過ごした記憶がよみがえります。

放蕩に明け暮れていた青春時代。身についていたはずの宗教的な生き方が私を救済してくれなかったことを、もどかしさと、ある種の罪意識をともなって私の心に去来したのでした。私はどもりというハンデを抱えていたので、青春期は劣等感をもって暮らしていましたが、その自分の性向を否定するように自信を内に秘めていました。その二つの思いが、私の内部で激しく摩擦しぶつかりあっていました。

放浪と頽廃と、生きることが耐えがたく感じられた青春時代、苦悩の出口はありませんでした。わがままで、自分勝手で、笑止千万な悩みでしたが、当事者である私にとっては真剣な悩みでした。

いかに生きるべきか。考えは同じところを行ったり来たりして、空まわりしていました。頭で考え、行きつくところは結局は元の位置、いわば堂々巡りの思考の蟻地獄におちいったようなものでした。

私の、母を離れての人生の巣立ちは、荒涼とした都会の孤独な一室から始まったということです。親を離れて自由を得るということはなんと不自由なことだろう、と思ったことを覚えています。まだ人生を十分に知らない青二才なのに、人生の不条理に傷つき、もがいていました。

若者らしく人並みに、未来にはさまざまな夢を描いていたのですが、どれもが手の届かないところにあるような挫折感を味わっていました。

私はまさに迷える衆生の一人だったのです。どのようにすれば、明日という日にたしかな手ごたえを感じられるのだろうか? 生きるという充実感を感じられるのだろうか? 私は真剣に救いを求めていました。

ある夜、ふと、母親がいつも唱えていた般若心経を唱えてみました。孤独な自室で、白い壁に向かって般若心経を唱えると、千々に乱れていた心が鎮まっていくのを覚えました。

お経の意味はともかく、心が軽くなり、悲しみや苦しみが拭われるように軽くなり、消えていくのを覚えました。

《 目次 》
◆第1章 悔恨と懺悔の日々
 ──天が与えた私への試練──
◆第2章 絶望からの再起
 ──自らの役割を果たすために──
◆第3章 それでも「天の声」は聞こえた
 ──反省のなかの裁判レポート──
◆第4章 人がよろこぶ行為は自分のよろこびとなる
 ──他人の痛みは自分の痛み──
◆第5章 人間の絆こそ心のエネルギー
 ──美しき情の世界──
◆第6章 使命感をもって生きる!
 ──私の考える人類救済──