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第3章

それでも「天の声」は聞こえた

──反省のなかの裁判レポート──

病気治しと宗教の存在

私を非難糾弾した人たちの言い分のなかに「病気治し」の点にふれていたものが多く見られました。

私や弟子が、病気を抱えている相談者や家族に対して「修行すれば病気が治る」と言って布施を求めたとか、病気になっていない人には修行すれば病気にならないと嘘を言って布施を求めたと、私を非難しています。天声では、いっさい「修行すれば病気が治る」とは示されていません。

宗教の存在価値は「苦」からの解脱です。広い意味では私が天声によって立教した宗教も、修行の仕方はともかく、苦しむ衆生の救済にあることは、いまさら述べるまでもないことです。

仏教の教える人間世界の四大苦も生・老・病・死です。宗教にすがる大きな動機は、病から逃れたいと悲願する気持ちです。「病」から逃れたいと念ずる心は「苦」から逃れたいということです。

一般的にいってどの宗教も、祈れば病から逃れられるということをなんらかの形で布教のなかで表明しています。人の苦を救いたいと考える宗教なら当然のことです。病気の苦悩ゆえに宗教に入信した人は数かぎりないはずです。

祈りや修行は人間改造の重要なキーポイントです。(おも)いを変えることで、肉体を変え、ひいては人間を改造します。人間が変われば、必然的に病も変わります。病が変わるということは病状が改善されることであり、ひいては健康な体を得るということにつながるのです。

どの宗教でも病になった信徒は、心の底から「主神」に対し、病気平癒を祈願するのは当然のことです。苦の海から衆生を救いあげる宗教なら、病気を治すことに真剣に向かいあうのは当然のことです。

しかし、私は自分を変えようとせず他力本願で病気を治そうとする人に対して、「ここは、病気治しをするところではありません。行によって病気を必要としない人間になるところです」と、折にふれて伝えてきたのですが、ただすがればすぐに病気が治ると期待する人には、私の真意は伝わらなかったようです。

キリストにも釈迦にも、病気治しの伝説はたくさん残されています。人間の苦悩の救済ということになれば、病苦からの脱出は避けて通れない命題なのです。神社仏閣の御利益の代表的なものは病気治しの霊験です。

私の立ち上げた団体にも、病苦から逃れたいと思って参加した人は多数います。

しかし、私に降りる天の声は、自分の力で自分を変革する「自力本願」を優先するものでした。修行を途中で投げ出して騙されたと私をうらむ人がいたのも、当然のことだったかもしれません。

天声を分析し構築した教えは、目的に到達するためにはいくつかの行を完結させることでした。この行法で人間は救済できるということを確信した私は、信念にしたがって行者に行をさせたのです。その希求があまりに強く激しいものだっただけに、その行についていけない人に誤解を与えてしまったのかもしれません。

《 目次 》
◆第1章 悔恨と懺悔の日々
 ──天が与えた私への試練──
◆第2章 絶望からの再起
 ──自らの役割を果たすために──
◆第3章 それでも「天の声」は聞こえた
 ──反省のなかの裁判レポート──
◆第4章 人がよろこぶ行為は自分のよろこびとなる
 ──他人の痛みは自分の痛み──
◆第5章 人間の絆こそ心のエネルギー
 ──美しき情の世界──
◆第6章 使命感をもって生きる!
 ──私の考える人類救済──