1. HOME
  2. ブログ
  3. 絶望の中の挑戦
  4. 無私の人生を生きたい

第1章

悔恨と懺悔の日々

──天が与えた私への試練──

無私の人生を生きたい

私は若いときに事業を起こし、成功させた経験をもっています。私は大手電器メーカーを脱サラし、弱電関係のメーカーを立ち上げました。

私の企画した仕事は、社会背景にもマッチし、タイミングがよかったのでしょう。あれよあれよと思う間もなく会社は急成長しました。そのころ、私は人間的に未熟でしたから、その現実に有頂天になってしまいました。

それまでの私の経歴は決して順風満帆ではありません。私が生まれた年に父は戦死し、母親に育てられました。片親にして貧苦の暮らしに加え、生まれつきのひどいどもりという劣等感にさいなまれて歳を重ねてきました。

そんな私が事業の拡大に成功したのですから、有頂天になるなというほうが間違いのようなものです。30歳で小さいながら自社ビルをもちました。

青年実業家として雑誌に紹介されたり、講演を依頼されて成功の秘訣について得意絶頂で語りました。人々は私の声に真剣に耳を傾けました。

若輩者の私は、栄華を欲しいままに生きることのできる現実にすぐに舞い上がってしまったのです。自分の力を過信しました。無意識のうちに慢心していました。慢心した心は真実を見抜く目をつぶしていました。

私は手形詐欺師の仕掛けた罠にまんまとかかり、莫大な負債を背負うことになってしまいました。自社ビルも蓄財もまたたく間に失い、5億を超える負債を背負うことになったのです。すべてがあっけなく消滅してしまいました。名声も泡沫のごとく地に堕ち、人々の嘲笑まじりの憐憫にさらされたのです。

このとき、私は大きな絶望と悲しみの日々に投げこまれたのです。倒産という苛酷な体験を味わったのです。金に人は群がり、すべてを失ったとき、人は私を見捨てて去っていきました。薄情な人間の冷たさも強欲さも、いやというほど知らされたはずです。

それなのに、後年、刑法の罰まで受けて塀の中につき落とされる仕儀(しぎ)になったのは、かつてどん底につき落とされたときの苦労が身についていなかったということにほかなりません。

あのとき、無一文になったときに、倒産という人生の試練に立たされたときに、私は自分を磨こうとしなかったことを痛恨の思いで反省しました。

心ある人間は逆境に立たされたときにこそ真価を発揮します。古今の偉人たちは、多くが何度も追いつめられ逆境に立たされています。そのとき、彼らは何をしたかということです。逆境を成長の糧としたのです。

君子は豹変す。小人は面を(あらた)む。

古代中国の『易経』にある言葉です。

「君子は己の立たされた立場によって臨機応変に対応するが、愚かな人間は顔色を変えて右往左往するだけである」という意味の教えです。

「君子は豹変す」という意味を悪く解釈する向きもありますが、本来の意味は、困難に直面したときに、あわてず動揺せずに、自分のとるべき態度を即座に判断するということです。

どんな困難な立場に立たされたときでも、これが一番すぐれた道だと信じる道を歩むのが賢明な人です。わが道を行くということは、信じる道を行くということです。このようなすぐれた人間に対比したら、私などは、ただただ自分のおろかさに恥じ入るばかりです。

『論語』にも「君子はこれを己に求め、小人はこれを人に求む」とあります。

悪い結果も、すぐれた人間は、自分の至らなかったゆえと考え、おろかな人間は、悪い結果はすべて他人のために起こったと考えるということです。

人間というのはとかく、悪い結果は人のせいにしたがるものです。しかし、すぐれた人間は、悪い結果は自分の責任であると考えるものです。

我々の身近にも、そのような卑怯未練な人は存在します。会社などで、部下の力のおかげですぐれた業績を上げた場合など、部下の手柄は自分が取りあげ、自分の手柄にしてしまい、逆に仕事で重大な失敗をしたときなど、失敗はすべて部下に押しつけるという上司がいます。このような上司には、部下は信頼してついていこうとしないのは当然です。

維新の立て役者の一人、薩摩の西郷隆盛は、自分の手柄は他人にゆずり、他人の失敗はわが身に引き受けたという記録が残されています。そのような人柄だったから、西郷隆盛は部下に慕われ、多くの人の尊敬を集めました。

西郷隆盛は幕末に勤皇派のリーダーとしてデビューするまでの間に2度、島流しにあっています。1度は政略的な島流しであり、2度めは藩主の後見役である島津久光の逆鱗(げきりん)にふれてのことです。2度めの島流しでは、生きて薩摩に戻れないと死を覚悟していたようです。

通常の島流しは流された島での自由行動は許されるというのが一般的でしたが、西郷の2度めの島流しでは島の中の荒れ果てた獄に入れられました。久光はどうやら、西郷が獄中死をすることを期待していたようです。

この容赦ない獄中の模様を綴った詩を意訳して紹介してみましょう。

私は獄につながれ氷のように冷え切った心で苦しみに耐えている

苦しみは骨の髄までしみわたっているが、私は真実と向き合っている

弁解めいたことを語ったりはしない

私は天に恥じることを何一つしていない

だれに向かってもそのように言える

しかし、西郷は島に流されても人々の心をつかみます。

島の監獄役人は陰になり日向になって西郷に尽くしたと伝えられています。おかげで西郷は獄死することなく生きて鹿児島に戻り、即座に軍賦役(ぐんぷやく)に任ぜられました。島流しの極悪人が一転して侍大将です。今風の言葉でいえば、軍賦役とは総司令官のことです。この輝くような返り咲きは、周囲が驚くというより、西郷自身が一番驚いたに違いありません。

西郷は明治維新成功の中心人物で、明治新政府の要職につきましたが、役人の腐敗に嫌気がさし、また他の閣僚と意見が合わずに、鹿児島に帰って後進の育成に励んでいましたが、明治10年、西南の役で決起し、戦に破れ、故郷の城山で自刃して果てました。

西南戦争も、持ち前の度量の大きさから、部下たちの暴走に引きずられ、担がれて不本意ながら参戦したというのが実情のようです。最後まで罪を部下になすりつけることなく、逆賊の汚名を一身に引き受け、汚名に甘んじて死んでいきました。

西郷の生き方を調べてみますと、わが信ずる道をひるむことなく、ただまっすぐに歩んだ生涯でした。富にも名声にも、こびることはありませんでした。自分が不利になろうが、正論をどこまでも主張し、そのために主君の逆鱗にふれての島流しだったのです。

しかし、どこに行っても、西郷の人柄に惚れこむ人たちがいて、西郷は命の危険を回避し、命をまっとうし、激動の幕末にデビューしました。

万人に慕われ、汚名にまみれながら、最終的には輝かしく歴史に名を刻みました。なぜだろうかと考えてみますと、それは西郷の生き方は「無私」だったからです。

私は思索をかさねる日々のなかで、どんな生き方を己に課したらいいかを考えたとき、「無私」という思いが勃然(ぼつぜん)として湧き上がってきたのです。

「無私」とは、文字どおり己を無にすることです。滅私です。

人間というのは、なかなか己を捨てきれないものです。自分が可愛いからです。自分が可愛いと思う心があるかぎり、他人のために生きるということはできないものです。ほんとうに美しい行為とは、自分を捨てて他者に尽くすということです。

自分より他者を愛す。それは天の心です。それこそが宗教人としての生き方です。無私というのは天の意に近づいて生きるということです。

私は再起を決意したとき、「無私」をこれからの人生の目標にかかげて生きたいと痛切に思ったのです。

「私」というものを無くした目で物を見つめるとき、いままで見えなかった真実が鮮やかに浮かび上がってくるのです。このことを私が理解したのは、思索をかさねる日々の暮らしのなかからでした。

真実を告白した後に残されるもの、それは真っ白な自分です。その姿こそ無私だということを私は心の底から実感したのです。

《 目次 》
◆第1章 悔恨と懺悔の日々
 ──天が与えた私への試練──
◆第2章 絶望からの再起
 ──自らの役割を果たすために──
◆第3章 それでも「天の声」は聞こえた
 ──反省のなかの裁判レポート──
◆第4章 人がよろこぶ行為は自分のよろこびとなる
 ──他人の痛みは自分の痛み──
◆第5章 人間の絆こそ心のエネルギー
 ──美しき情の世界──
◆第6章 使命感をもって生きる!
 ──私の考える人類救済──