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第3章

それでも「天の声」は聞こえた

──反省のなかの裁判レポート──

修行とは苦行をよろこびに変えること

宗教の教えのなかには、ただ念仏を唱えることで救われるというものもありますが、多くの宗教は、真の救いを得るためには「悟り」が必要で、そのためには「修行」することが求められています。

悟りというのは、私の体験からいっても、数学の問題を解くように理詰めで立ち向かっても答えは得ることはできないものです。心身、すなわち心でも肉体でも、まるごと解らなければならないものです。すなわち、全存在をかけて体得するのが悟りです。

頭で考えて解る悟りなら、知能指数の高い人ほど悟りが早いということになります。しかし、実際はそうではありません。全身で理解するためには、よくある例として山野を駆けめぐったり、滝に打たれたり、断食したりと、心身を酷使してはじめて自分の求めていたものを理解できることがあるのです。

前述の釈迦の弟子は掃除に一心不乱の生涯を捧げて、悟りを得たのです。秀才の兄貴が悟れずにいるのに、自分は掃除に命をかけたことで、無常の境地を体得したのです。

救われるためには、自分の知能や明晰さを鼻にかけてはいけないのです。富に寄りかかっても、地位に寄りかかっても、学歴に寄りかかっても、わが頭脳に頼ってもなりません。救われるためには、ただ悟ることです。悟るためには、修行ありきなのです。

修行とは、自分を磨き自分の限界を知ることです。

火燵に温もって、酒を飲み、美食、惰眠にふけっていたのでは、修行にならないのは当然です。仏教書を読んで知識が豊富になっても、悟りが開けるというものではありません。

悟りとは、知ることではなく、開眼することです。開眼は頭脳に触発されるものではなく(こころ)によって触発され、観となって意識下に刻まれることです。

そのためには、ときには肉体の酷使によって悟りが開かれることもあります。一度は見聞きしたことがあるかもしれませんが、よく滝に打たれたり、山野を駆けめぐったり、護摩を()いたり、繰り返しひざまずいたり、断食したり、寒中水をかぶったりするのは、パフォーマンスでやっているわけではありません。心身を極限状態におくことで、念に響くもの、観に刻まれるものがあるからです。

自分を極限状態におくことは、どこででも、できるというわけではありません。みずから求めて、その状態をつくらなければなりません。

宗教活動の違いによって、修行の形や方法が異なるのは当然のことです。また、類似した修行もあります。

人生のなかで、自分の好まない形で修行させられることもあります。たとえば、刑務所のような身柄を拘束される生活も修行の一種と考えられます。

私が司法に対して一歩も譲らない形で取り調べを受けていたために、拘束が長引きました。そのとき、天声は「修行はいずこの場所にても可能なり」と私に降りたのです。私はひとまず、すべてを無にして獄に下ることにしたのです。

塀の中に歩み入る私の心情のなかに、多分に修行のためという思いがありました。また、人類救済という使命はどこに居ても果たせるという思いもありました。たしかに刑務所は、罪をおかした者にとっては贖罪(しょくざい)の場所であり、罪の意識をもたない者にとっては修行の場所です。

前述したように、私と同じ刑務所に服役していた一人の罪人は、母親への親不孝について苦悩していました。出所するまで親孝行ができないことに苦しんでいました。そのとき、私は親孝行はどこに居てもできると語りかけました。

これは、いわば悟りのヒントとして囚人に投げかけたのです。

「親孝行というのは、相手を思うことだ」と私が投げかけたヒントを、彼自身、苦しみのなかで悟ったのです。

「いままで、親孝行と軽々しく口に出していたけど、それはほんとうの親孝行ではなかったことが解りました。親孝行というのはただ、相手のことをひたすら思うことだということが解りました」

彼は涙をこぼしながら私に言いました。

親孝行をするということは何か? という大命題の悟りです。

孝行とは何かと人に問えば、多くの人は、いままで身につけた知識ですらすらと答えるでしょう。親に心配をかけないこととか、肩を揉んでやるとか、親より先に死なないことだとか……、いろいろな答えが出てくるに違いありません。しかし、それらの答えは親孝行の形であって悟りではありません。

前述のように、「塵と垢を除くとは何か」ということを悟るために、気の遠くなるような長い歳月がかかっているのです。同様に、親孝行とは何かということを悟るのは、そんなに簡単なことではありません。彼は、獄中にあって苦行を実践していたために「親孝行とは何か」ということが解ったのです。親孝行とは何か、「ただひたすら親を思うこと」と彼は体得したのです。すなわち、その結論を得たことが悟りです。

それは決して知識ではありません。方程式ではありません。悟りなのです。悟ることによって苦が消滅します。苦が消滅することで、世の中が明るくなります。それが救いなのです。

天声はゆえに「衆生に修行をさせてあげなさい」と私に伝えたのです。私は天声を分析して、修行の法則を定めました。そのうわべだけをとらえれば重くつらい苦行です。これを人々に課したのです。なぜなら、真の修行は苦行をよろこびに変えるということを確信していたからです。

しかし、苦行に耐えられない人もいます。そのような人はどのように救えばいいのか、これはこれからの大命題です。

この命題の答えを天声は教えてくれません。私自身が探し求めなければならない悟りです。

人は苦行によって悟る。悟ることで救われる。しかし、苦行に耐えられない人もいます。どんな人も、救われなければなりません。このジレンマを背負いつつ、人類救済の道を歩まねばなりません。

《 目次 》
◆第1章 悔恨と懺悔の日々
 ──天が与えた私への試練──
◆第2章 絶望からの再起
 ──自らの役割を果たすために──
◆第3章 それでも「天の声」は聞こえた
 ──反省のなかの裁判レポート──
◆第4章 人がよろこぶ行為は自分のよろこびとなる
 ──他人の痛みは自分の痛み──
◆第5章 人間の絆こそ心のエネルギー
 ──美しき情の世界──
◆第6章 使命感をもって生きる!
 ──私の考える人類救済──