第2章
絶望からの再起
──自らの役割を果たすために──
私にとって生きるという意味
私は、再起を決意したとき、「無私」をこれからの人生の目標にかかげて生きたいと、前章で申しあげました。
生きるということは漫然と流されて、無為に日を送ることではありません。生きようという強い意志をもって、信ずる道を歩むことです。それこそが真実の生き方だということを、苦悩の歳月のなかで私は悟りました。
仏教は、生きるということそのものが苦だと教えています。生老病死は人間世界の四大苦と釈迦は教えています。私は、まさに苦境の元凶のごとき監獄に投げこまれ、苦そのものを身をもって体験いたしました。
私の服役した刑務所は福島県境にほど近い栃木県の刑務所でした。第一章でも述べたごとく、私は、獄囚となり、まさに四苦八苦を象徴したような生き方を強いられたのです。
来る日も来る日も、暗く切ない地獄の生活に等しい10年間でした。それでも、私は生きなければなりません。いや、生き続けなければならないのです。私にとって生きることそのものが修行だったからです。
アメリカの作家ウイリアム・サローヤンは、小説「汝の人生のさなかに」の中で次のように語っています。
「生まれたということは、人間の一つの結末である。やがて死を迎えるということとは生を受けたという現実に対しては問題の外である。生きることが人間の喜びであり法則である。人はこの法則の
まさに、そのとおりでありましょう。しかし牢獄は、生きることに喜びなど感じられるような場所ではありません。
たしかに、世の人は、この世に生を受けたのはまったくの偶然ととらえるかもしれません。ウイリアム・サローヤンは、人間というのは自分の誕生に関与できないと語っているわけです。
人間は誕生に際し、親も場所も時間も選べません。生まれたのは自分の意志ではありません。私たちは生まれた瞬間から、天の法則によって生きよと命じられているのです。
死は、生の結果として必然的に生きとし生けるものに与えられた運命ということです。死は、考えるべきものではなく、受け止めるべきものだということです。
ウイリアム・サローヤンは、自分の意志で生まれてきたのではないのだから、生きることを喜びとして受け止めよというのです。
すなわち、自分の意志ではなく自分を超えた大きな力によって生かされたのであるから、生かされているそのことを喜びとせよと語っているのです。このウイリアム・サローヤンの考え方は仏教の教えとはまるで違います。
仏教は生きることは「苦」だと教えています。しかし、同時に死もまた苦だと教えているのです。仏教は生・老・病・死を含む四苦八苦からの解脱を教える宗教です。人間は、生きるも死ぬも苦であるから、悟りを開いて彼岸に至れと教えているわけです。
しかし、仏教の創始者である釈迦が伝えたかったことは、生きることは「
私にとりましては、投獄され、修行の日々を生きることに決まったその日から、生きぬいて真実にたどり着くという大命題を背負わされたわけです。
苦にまみれて打ちひしがれているわけにはいかないのです。立ち上がらなければならないのです。立ち上がって未来の扉を開けなければなりません。
明日は嵐か、雨かなどといってはいられないのです。たとえ槍が降っても、生きなければならないのです。
つらくても、背負った物がどんなに重くても立ち上がり、歩まなければならないのです。再起こそが天が私に示した道だということです。