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第2章

絶望からの再起

──自らの役割を果たすために──

再起は守りではなく攻めること

一度したたかに叩かれ、踏みにじられると、多くの人はその現実に恐れおののき、自分の生きざまを消極的なものに変えてしまいます。なにしろ、落ち目になったときの苦しさは、それを体験した人でなければ解りません。その気持ちも、解らないではありません。

たしかに、なにもなさなければ、失敗も傷つくこともありません。なんの行動も起こさなければ、なんの結果も出てこないわけですから、失敗の苦い水を飲むこともありません。

まさに「雉も鳴かずば撃たれまい」の()れ歌のとおりです。一声雉が鳴いたために、猟師に気づかれて鉄砲で撃ち落とされてしまったのです。これは、うっかり鳴いたりするのはばかばかしいことだと考える人がいても無理もありません。

人間も小ざかしくなると、自分から手を挙げたり、先頭を切って走ったりはしません。ひっそりと息を殺して、だれかが先鞭(せんべん)をつけるのを待っています。待ちの姿勢です。

これでは、人生なにも始まりません。失敗もしないかわり、成功もしません。絶望から立ち上がるということは、待ちの姿勢ではできません。立ち上がって何かを為すということは、現実に対して立ちむかうことです。

しかし、一度大きな失敗をすると、失敗がトラウマとなって、もし、これをやったために、失敗してふたたびどん底につき落とされるかもしれない。警戒心が強くなり、立ち上がること、攻めこむことに臆病になります。

これでは、真に再起したことにはならないのです。

私も、これからの余生を静かな生涯で過ごすことも考えました。しかし、天声にも耳を貸さず、利己の道を生きるということは、私が真実の再起を果たしたことにはならないのです。私にとって、再起を果たすということは、攻めの姿勢で人類救済の使命をまっとうすることです。

どうせ一つしかない命、いずれ死を迎える命、この命を人類救済のために燃え尽くしてしまうことの尊さを私は知っています。知っているのなら、実行しなければなりません。立ち上がらなければなりません。

待ちの姿勢で、唯々諾々(いいだくだく)と命の尽きる日を待っているわけにはいきません。この命を、自分の真実を貫くために使いきるということが、私のひとつの再起の真実なのです。

《 目次 》
◆第1章 悔恨と懺悔の日々
 ──天が与えた私への試練──
◆第2章 絶望からの再起
 ──自らの役割を果たすために──
◆第3章 それでも「天の声」は聞こえた
 ──反省のなかの裁判レポート──
◆第4章 人がよろこぶ行為は自分のよろこびとなる
 ──他人の痛みは自分の痛み──
◆第5章 人間の絆こそ心のエネルギー
 ──美しき情の世界──
◆第6章 使命感をもって生きる!
 ──私の考える人類救済──