第1章
悔恨と懺悔の日々
──天が与えた私への試練──
がんじがらめの縄を解いて
私はたしかに長い刑務所暮らしで体力は落ちています。汗を流すような激しい活動に体力的自信をなくしておりました。いまは
このまま、このような生活を続けていていいのだろうか? ときに、ふと焦燥の思いにかられることがありました。
天声は私に「立ちて野に出でよ」とうながします。「再起の時は至れり」と天声が聞こえます。私の心はよろこびに打ち震えます。
15年という獄中暮らしは心身に相当にこたえています。体力は相当に落ちています。しかし、私の心には獄中で培った人類救済への
15年間の失われた月日は相当に大きいものがあります。しかし、15年間の長い艱難辛苦の歳月が私に与えてくれた貴重な教えは莫大な財産として私のなかに蓄えられています。暗黒の砂地に一滴一滴しみこむ清洌な清水のように、人類救済への道筋が私のなかに熟成しております。
真に人間を救済できる人は、人の苦しみや悲しみを我がこととして実感できる人です。人の裏側に渦巻く諸々の感情、喜怒哀楽を知りえずして人を救うことなどできるはずはありません。己がこの世の苦しみを知らずして、他人の苦しみを理解できるなどということはありません。
そういう意味で、獄中は人間修行の場としてはこれ以上のところはありません。苦悩や悲嘆の溜まり場のようなところで、人間の
私は出所してきて3か月ばかり経ったころ、古本屋で一冊のガリ版刷りの詩集を手に取りました。その中に掲載されていた何気ない短詩に感動しました。題名は「涙」と一字でした。
私は貧しいからいつも泣かねばなりません。
私は貧しいからあなたの涙が見えました。
ただそれだけの詩です。自分が貧しいゆえに、人の涙が見えるという、この何気ない17歳の少年の言葉に胸を打たれました。ほんとうにどうということもない言葉です。
しかし、砂が水を吸いこむように私の心にこの言葉がしみこんでくるのです。たしかに、自分が深い悲しみを抱いていないのに人の悲しみなど解るはずがありません。
じつは私自身、苦しむ者の涙がいつも見えるようになったのは監獄につながれてからだったような気がします。
天声を、そのまま伝えるのが私の役割です。しかし、天声を伝える私にほんとうに苦しむ者、悲しみにまみれている者の涙が見えていただろうかということに、あらためて気づかされるのです。真の人類救済は、天声と同時に涙の解る人間の手によってなされなければならないことを深く心に刻んだのです。
私は幾度となく自分に問いかけたのでした。
「万民の涙が見えているか?」
これからも、私はこの問いをわが胸に放ちながら救済の道を歩み続けていくつもりです。