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第2章

絶望からの再起

──自らの役割を果たすために──

私にとっての再起の真実

再起をするということは、わが身を立てなおすということです。

絶望のどん底につき落とされ、先が見えなくなり、なす術もなく立ち止まっていた目に、かすかに明かりが見えてきて、明日に向かって一歩を踏み出すこと、それも再起です。したたかに転んだ人が痛みに耐えて、うめきつつも立ち上がることも再起といいます。

なかには、再起をあきらめる人もいます。立ち上がる気力を失い、希望の明日を夢見ることもなく、暗闇のなかに立ちつくしたままの人もいます。すなわち、再起を放棄した人です。

もし、私が宗教人という枠から解き放たれ、絶望と無為のなかで息をこらして生きる、怠惰(たいだ)な安穏は、あるいはひとつの処世術だと考えたかもしれません。絶望と無為のなかで生きるということは、腐臭(ふしゅう)の泥沼の中で惰眠(だみん)をむさぼる下等動物のような生き方です。転んだまま、立ち上がろうとしない生涯は、人間としての尊厳も自信も失ったみじめな一生です。

絶望のどん底に投げこまれた人に悪魔の声はささやきます。

《なにも、無理して立ち上がる必要もないよ。再起なんか、あきらめたほうがいい。(こご)える木枯(こが)らしのなかに出ていく必要はないよ。じっとしていたまえ。部屋の中は暖かいよ》

《努力なんか、いまさら、必要がないよ。立派に生きる必要もないよ。こうして怠惰に快楽だけを(むさぼ)っていれば、自然に月日は流れていくさ》

このような声に惑わされ、絶望にまみれたまま生涯を送る人もいます。

このような不幸な人に「がんばれよ」と激励の声をかけても反応しません。

他人(ひと)のことは放っておいてくださいよ。私はどうせ、負け組なんですからね。負け組には負け組の気楽さがあるんですよ」

卑屈な笑顔でつぶやく人もいます。

私自身も突然足を引っぱられて、したたかに転んだ者の一人です。転んだというより、見えない何者かの力により足をとられ無理やり転がされたのです。

突然打ち倒された私の体はまさに満身創痍(そうい)、痛みは全身をおおい、立ち上がるどころか、まともに呼吸さえできないような衝撃を受けました。

しかし、天声を一度聞いてしまった私は、転んだまま空を見上げているわけにはいかなかったのです。負け組として人生を放棄するわけにはいかなかったのです。幸か不幸か、私は天声の伝達者としてこの世に遣わされた人間です。まさに、私自身の生涯は「天声」の伝達者という宿命を背負って生きる法則のなかに組みこまれていたのです。

人間というのは、たえず修行のなかに投げこまれるのです。倒産というような経済的ダメージ、失恋のような人間関係のダメージ、病気のような肉体的ダメージ、天災のような環境のダメージ……、私たちの人生にはさまざまな不如意や絶望が待ち受けています。

次々に襲いくる異常な事態、これを不運ととらえるのは間違っているのです。天によって修行を課せられたと考えるべきなのです。この修行に耐えぬいて、いくたびも再起をしていくことで一回りも、二回りも大きな人間へと脱皮していくのです。人間の器が大きくなるというのは、天に近づいているという証でもあるのです。

私は前項で述べたように、牢獄のような救いのない場所でも自分を高め、天に近づく努力をしてまいりました。自分を高めるということは、徳を積み重ねるということです。徳を積み重ねていくことによって、天に近づいていこうとしたのです。

私が天に近づく努力に明け暮れるということは、己の生き方を人類救済の使徒として位置づけることと同じ意味です。私にとっての再起は、徳を積むための日々を足跡として刻むということです。それ以外の道はありません。

《 目次 》
◆第1章 悔恨と懺悔の日々
 ──天が与えた私への試練──
◆第2章 絶望からの再起
 ──自らの役割を果たすために──
◆第3章 それでも「天の声」は聞こえた
 ──反省のなかの裁判レポート──
◆第4章 人がよろこぶ行為は自分のよろこびとなる
 ──他人の痛みは自分の痛み──
◆第5章 人間の絆こそ心のエネルギー
 ──美しき情の世界──
◆第6章 使命感をもって生きる!
 ──私の考える人類救済──