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第3章

それでも「天の声」は聞こえた

──反省のなかの裁判レポート──

受難の幕開き

私は、人を騙したという司法当局の見解によって警察に逮捕されました。

騙したか騙さないかの大きな争点は、天声が実在するかどうかということです。当然ながら私は天声にしたがって行動したのですが、それを当局が認めてしまうと、私が人を騙したことにならないのです。どうしても、天声など存在しなかったということにしなければならなかったのです。

私は取り調べに対して、毅然として天声が私の宗教家としての原点であることを述べました。もちろんそのこと、その私の主張は、司法当局には認められませんでした。来る日も来る日も押し問答です。私が当局の求めるように告白をすれば、早い段階で起訴され、スムーズに裁判が進行したと思います。そして、被告は反省していると認められ、裁判官の心証もよく、量刑も少し軽くなっていたかもしれません。しかし、私にいたしましても、天声が聞こえなかったと嘘の供述をするわけにはいきません。

聞こえる声を聞こえないと、嘘をつくわけにはいかないのです。宗教家の良心として、その一点を譲るわけにはいかなかったのです。そのために、刑務所以前の拘置所暮らしが3年の長きにわたりました。

宗教人が捕らえられ、教義や教団が裁かれた例は数多くあります。多くの宗教家が時の為政者に弾圧され投獄された苦痛を、私は身をもって体験することになったのです。なかでも私の脳裏をよぎったのは、コペルニクスの地動説を支持したガリレイが宗教裁判にかけられて有罪となった事実でした。

有罪の判決を受けたガリレイは「それでも地球は回っている」という一言(いちごん)をつぶやいたというエピソードはあまりに有名です。ガリレイにとって、だれがなんといおうと「地球が回っている」という信念は真理そのものだったのです。

私も同じような思いで判決を聞きました。たとえわが身が有罪になろうとも、「天声は聞こえた」と私は心でつぶやいたのです。

宗教への弾圧はいつの時代にもありました。いまは大教団になっている新宗教の教祖たちも、当初、神がかりしたり、幻聴があって、そのことが神意となって人心をつかんだのです。しかし、当時の教祖たちは、私と同様、ペテン師として牢獄につながれました。

教祖のなかには、神がかりは偽りであろうと、ひどい拷問を受けた人もいます。長い獄中生活を送った教祖もいます。しかし、それらの教祖が立ち上げた教団は、いまでは、大教団としてゆるぎない地位を確立しています。当時は偽りとして抹殺された教えも、いまでは救済の宗教として認められているのです。

思想的な活動もそうです。戦時中には悪とされた思想が後年、法律が改正されて思想として認められたということは周知の事実です。

真実もときには悪となり、天声もときには偽りとされます。しかし、幾歳月を経て天の声が真理として認められる日が来ることを私は確信して獄に下りました。

私に対して「天声が聞こえるなどと嘘をつくな!」と迫った取調官に対し、私は心のなかで「天声は聞こえる」と終止つぶやき続けていたのでした。その私の態度は、取調官や裁判官に反省のない態度ととられました。そのためもあってか、懲役12年という重い判決を下されました。

《 目次 》
◆第1章 悔恨と懺悔の日々
 ──天が与えた私への試練──
◆第2章 絶望からの再起
 ──自らの役割を果たすために──
◆第3章 それでも「天の声」は聞こえた
 ──反省のなかの裁判レポート──
◆第4章 人がよろこぶ行為は自分のよろこびとなる
 ──他人の痛みは自分の痛み──
◆第5章 人間の絆こそ心のエネルギー
 ──美しき情の世界──
◆第6章 使命感をもって生きる!
 ──私の考える人類救済──