第3章
それでも「天の声」は聞こえた
──反省のなかの裁判レポート──
天声に接することになった状況
この裁判の争点の中心になった「天声」について語らなければなりません。
過去何十年にもわたって講演や著書で繰り返し述べておりますので、拙著をお読みいただいた読者には周知のことと思いますが、はじめての読者のために概略を説明しておきます。
天声に接する下地として、そのとき、私の身が危機的状況にあったという点があげられます。〝声なき声を聞いた〟という人たちの伝記を読んだり、告白を聞いたりしますと、病気になったり、困難に直面したときがきっかけとなっています。伝記などによりますと、がんで吐血し、まさに事切れようとしたときに仏の化身が乗りうつったという教祖もいます。
すなわち、自分自身がせっぱ詰まった状況、ぎりぎりに追いつめられた危機的状況に立たされたときに神の声が降りてくることが多いようです。
異常な状態、せっぱ詰まった極限状況に立たされているときに、声なき声を聞く下地ができるということです。そういう事態に立たされた人の感性は病的に研ぎすまされ、かすかな変化にも敏感に反応します。
そういう状況で天声を聞くわけですから、一歩間違うと、神の声は精神異常者の幻聴と受け止められかねません。天声を聞いた私自身が、苦悩のあまり、気が狂ったのではないかと思ったくらいです。
人間は人生のなかでさまざまな危機に出会います。私も、軌道にのせた事業が手形詐欺にあい倒産いたしました。築きあげた地位も名誉も財産もすべて
すべてをはぎ取られ、雨露しのぐだけの4畳半の仮住まいで
私自身の映像はすぐに消えました。少し経って、私の心の底をよぎった思いは、もしかして「二重身?(もう一人の自分)」ということでした。
だれかに聞いたのか、本で読んだのか、人生の危機に直面したときなどに、自己を救うために表出される超自我(内なる自分の力)なるものの存在に思い至りました。
たとえば、冬山で遭難した人が、万策尽きて死を覚悟したときに、つねに自分の前を行く、もう一人の自分に先導されて、ついに生還したというエピソードを聞いたことがありました。
おそらく、それは追いつめられた人間の行きついた気づきなのでしょうが、内なる自分が私自身に対して「死んではならぬ!」とはたらきかけたのでしょう。
まぎれもなく私は、不思議な現象によってみずからの命を断つことを思いとどまりました。しかし、そのときは前述の超自我によって映じた幻覚と考えていました。何がなんでも生き抜いて再起を果たそう。私は心に誓いました。
私が天声らしきものにふれたのは、それから半年後のことでした。
ひどい過労で高熱を発し、布団に横たわっていると、深夜、突然目の前に強烈な光が照射されたのです。赤い光に近いオレンジ色の輝きでした。私は驚いて飛び起き、布団の上に座りました。キリスト、釈迦をはじめとする偉大な宗教家たちが次々にあらわれ、その背景に声が流れました。
「このままでは人類は行きづまる。科学でも医学でもいかんともできない。この地上に人類の最後の救済者としておまえをつかわす。天地の法則の法、人間のみなもととしての源、おまえは
高僧たちの幻影はまもなく消えましたが、天声は続いていました。
「この地上にいる人間はすべて、もともとは人間法源である。目に見えないものを見よ。耳で聞こえないものを聞け。生かされ 生かす人間法源を発見せよ。すべてが救われる誠の道となり、解脱天主と定まった。法の手で全人類を救い、法の足で法の道を歩み続けよ。これすべて、南無天法地源如来行なり」
私は、はっきりとどの方角から聞こえてくるのか判らない声に耳を傾けていました。
「法源、おまえは天の声の伝達者として、天の声を人々に伝える役目を担え」
まるで、エコーのかかったような余韻を引きずった声で語りかけてくるのです。その間、まるで一瞬に時が流れたような気がしましたが、時計を見ると2時間近い時間が経過していました。
以後、私は数知れない天声を聞くことになるのです。
その結果「法の華」という宗教法人を設立しました(この組織は私以下、弟子や職員の逮捕などで、やがて解散し清算しました)。私はその天声にしたがって、人々の救済に奔走しました。その行動は間違っていませんでした。
その証拠に、行者は増え続けました。それは決して人を騙したり、催眠術にかけたりした結果ではありません。天声が人類救済の真理を含んでいたからだと私は思います。