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第6章

使命感をもって生きる!

──私の考える人類救済──

人生、背負った荷を軽くしよう

戦乱の世を平定した徳川家康は「人生は重い荷物をかついで坂道を登るようなもの」と言いました。私はこの金言は小学校の校長先生に聞いたのですが、後年、ああこれは徳川家康の言葉であったかと思いました。

校長先生が子どもたちに語ったときは、人生というものは苦労の多いものだから、心して生きていかなければならないという覚悟の教訓だったと思います。

長じて多くの人たちを見ていると、背負わなくてもいい荷物を背負(しょ)いこんでいる人が多いことに気がつきました。まさに家康の言葉どおりです。

考えてみると、たしかに人間は成長するにつれて、荷物を一つずつ増やしながら人生行路を歩んでいるのです。生まれたときは、私たちはなんの荷物も背負っていなかったのです。

もちろん、だれもが「生まれた星」という宿命は背負わされているわけですが、それはこの際論じないことにします。

とにかく、生まれたときにはなんの荷物もなかったのに、物心つくといろいろな荷物が増えてきます。人生が苦の海に喩えられるのは、生きていく過程で否応(いやおう)なく背負わされる荷物が増えていくからです。

荷物の種類はいろいろです。肉親のしがらみ、病気や死、愛欲、恋愛、就職、出世、失業……、どれもが、みんな重い荷物といえば荷物です。人間であるかぎり、年を重ねるごとに荷物は増え続けていきます。

私は人々によく語ります。

「荷はいくつ背負ってもいいだろう。背負った荷物を、荷物と思わずにわが身と思え。荷物は重いと感じるが、わが身ならばしかたがない」

荷の多さに目まいを起こし、錯乱して、肩に張りついた荷物で動きがとれなくなっているのは、なんともつまらない人生ではありませんか。

金銭も、名声も、出世も、恋人も手に入れたいと考えるのが業です。この業があるゆえに、人々は勉強したり、働いたり、知恵をはたらかせたりしているわけです。

「この女性と結ばれたい」と考えて、いろいろとアピールしたりするわけです。また、よい暮らしがしたいから一生懸命働きます。ある意味で、業があるゆえに会社が繁栄したり、子孫が生まれたりするわけです。

しかし、その業をいつまでも引きずっていることに、やがて耐えられなくなるときがきます。

ところが、長年にわたって業の世界に汚れきってしまった人は簡単に業という荷物を捨てきれないのです。荷物をかついだまま休息をとろうとしても、どこに腰を下ろせばいいのか解らなくなっています。そのとき、人は「荷物が重いなあ」と実感します。

多くの人が、重い荷物を背負ったまま生涯を終えています。だが、ある人は一つの頂上に立ったとき、もう一つ高い頂上があるのに気がつきます。そのときこそ、次の頂上へ向かえばいいのです。そのときは背負っていた荷物を捨てて、身軽になって頂上を目ざすということです。それこそ、からっぽの身で、身軽になって次の高い山に向かうということです。ほんとうの人間らしい生き方を求めて生きるということです。

そのときには、徳が積めています。

次の山こそが、一皮も二皮もむけたほんとうの自分を見つける道筋です。人間としての荷物を捨てて、軽くなった体で登る救いの人生ということです。

人生を極めるということは、心ある人間に与えられた特権です。それまでは、生きるために、子どもを育てるために、仕事をまっとうするために、重い荷物を背負わなければなりませんでした。

しかし、いままで背負ってきたのが重い荷物であったことに気がついてから、いかにしてその荷物を捨てて身軽になるか。すなわち新しい自分にどのように生まれ変わるかというのは、荷物を捨てる「行」に生きるということになります。

我にまとわりついているものをいっさい捨て去るという行です。

我を捨て去るというのは、放心とも虚無とも違います。自我の超越ということです。すべてを超越した無我の世界です。金銭からも、名声からも、愛憎からも、すべての執着から自由になったよろこびの世界ということです。

《 目次 》
◆第1章 悔恨と懺悔の日々
 ──天が与えた私への試練──
◆第2章 絶望からの再起
 ──自らの役割を果たすために──
◆第3章 それでも「天の声」は聞こえた
 ──反省のなかの裁判レポート──
◆第4章 人がよろこぶ行為は自分のよろこびとなる
 ──他人の痛みは自分の痛み──
◆第5章 人間の絆こそ心のエネルギー
 ──美しき情の世界──
◆第6章 使命感をもって生きる!
 ──私の考える人類救済──