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第四章 実証

【1】

私は泣いていた。涙が止まらなかった。

いつまでも拍手の鳴りやまぬ講演会場で、私は聴衆との別れを惜しんでいた。だれもが喜々として素晴らしい顔になっている。会場内は、まさに至福につつまれていた。どの聴衆の顔を見ても、苦虫をつぶしたような小難しい顔ではない。みなさんキラキラと輝いているのである。

これは頭の中で私の話を理解しているわけではないからである。「天声」の「おもい」が聴衆に伝わって、よろこびのおもいが全身にあふれているのだ。

「がんばります。ありがとうございましたぁ!」

「本物をやらせていただきます!」

「ただただ感謝です。ただただらせていただきます!」

腹の底から声をしぼるようにして、いつまでも声援を送ってくれている。一般の人を集めた講演会で、これだけ全員がそろって最高のおもいで盛りあがっているのは、ひさしぶりであった。それだけにうれしさが涙になったのである。

私の講演会は、普通の講演会とは少々違っている。

それは、話を聞かせるのではないからである。講演会で話を聞かせないというのもおかしな表現だが、言い方としては間違っていない。

なぜならば、講演会とはいえ、話をするのではなく、ここでは「天のおもい」をストレートに伝えることにあるからである。

不思議なことに、その会場の雰囲気によって、出てくる「天声」の内容は違っている。いつも同じような内容に見えて、その実、まったく違ったものになっているのである。あるいは、文章にすれば同じようなことでも、その日の声の調子、言葉の間、抑揚の違いなど、ひとつとして同じことがないのである。

ちなみに、それらの「天声」を収めた『天声聖書』が、教典や読みものではないという理由は、このようなところにある。その言葉は文字であって、文字ではない。「おもい」でとらえることによって、生活に役立つようになっている。

なぜに「天声」が毎回違っているのかといえば、それは、その日の聴衆の「おもい」が天に伝わり、その日に必要な「天声」を私を通して伝えるからなのであろう。なぜにそうなるのかは知らないが、これが「天」の優しさなのではないかと私はとらえている。

そのためであろうか。「おもい」の低い会場では、七転八倒の現実を体験させられることになる。いわば聴衆のもっている最悪の生きざまの「おもい」が、極端に多すぎて、その最低の「おもい」が大量に私のなかへ入りこんでしまうからである。

ときには、あまりに低いおもいの聴衆が多勢集まったせいか、

「バカたれもの、なぜ目覚めないのか!」

と罵声を吐くときもある。その怒鳴っている自分に驚きを感じることもあるが、そのひと言によって、聴衆のなかには、一気に目覚める者もいるのである。口あたりのいい優しい言葉だけをならべても、そんな言葉はそのときウットリするだけのことである。「天」はちゃんと聴衆の生きざまを見ている。怒鳴るときにはおもいきり怒鳴って、その人を気づかせているのである。

その人の生きざまを変えることの難しさは、だれもが納得することであろう。ほんとうに根っこから腐ってしまったような最悪の生きざまをしている人には、もはやどんな言葉も意味をなさない。そんなときに、

「いい加減にせい!」

の罵声が会場に飛ぶのである。しかし、その本気の罵声に、自分自身の最悪の生きざまに目覚め、新しい最高の生きざまを手にした人がいくらでもいる。私自身、はじめのころはその「天声」にとまどったものであったが、そうした目覚めた人たちを現実に見ると、その実証力にあらためて感謝せずにはいられないのである。

《 目次 》