第一章 天意
【6】
「天声」の流れは止まらない。私の状況がどうであれ、そのようなことはいっさいおかまいなしに情け容赦なく、毎日毎日メッセージを伝え、伝えては私を突き動かしていく。ついには、ふり注ぐ「天声」の数も膨大になり、自分を眺めている暇さえなくなるほどに忙しくなっていった。
そんなある日、
「3月21日に、天声開説会を開きなさい」
という記念すべき劇的な「天声」が下った。
「まさか!」
これがそのときの私の偽らざる第一声であった。まさに私にとって「まさか」なのである。なぜならば、私は幼いころからドモリで苦しんでいたのである。そのひどいドモリによって、内向的な性格になり、人嫌いに落ちこんだくらいであった。
いちおうは成人するまでに努力を重ねて、多少はよくなっていたが、会社を経営していたときなどは、重要な伝達には、間違いのないように必ずといってよいほど筆談を行っていたほどである。
それほどに重症ともいえるドモリの私に、なぜ天声開説をやれというのだろうか。「開説会」とは、人前で話すこと以外のなにものでもない。そのくらいの察しは、私にも容易につく。
いったい「天声」は、このドモリの私を人前に出して、どうしようというのだろうか。大恥をかけというのだろうか。母との訣別といい、今回の「開説会」といい、「天声」の示す意図が意地悪く思えてしかたなかった。
人前で話をすると考えただけで、子どものころのみじめで恥ずかしい場面が走馬灯のようによみがえってくる。できることなら、逃げ出したい。本気でそう思う自分がいた。
しかし、逃げ出すことはできない。私はすでに「天声」の厳しさを身にしみて知っていたからである。「抵抗しても無駄だろう」という、一種あきらめの思いが自分をとらえて離さなかった。
このことを知人に話すと、知人は大いに興味をもった。そして、
「絶対にやるべきだ」
と、私に準備をうながすのである。本音をいうならば、そのときに反対してほしかった。これもまた当時の私の偽らざる気持ちである。意気地のない男だと思われるかもしれないが、ほんとうにドモリを体験した者でないと理解できない気持ちであろう。
しかし、「天声」からは逃げられないと知っている私は、知人に後押しをされるままにさっそく、東京・渋谷にある東住協ビルの一室を借りた。当時は、いまのようにワープロなど普及していない時代であったから、ビラ一枚つくるのも大変な作業であった。
私はガリ版を準備し、ロウ紙の上に鉄筆を走らせた。カリカリという鉄筆の音がせまい部屋に響く。文章を刻んでいくうちに、なぜか至福につつまれた自分のいることに気づいた。
顔から笑みがこぼれている。よろこびがあふれてきているのだ。
知人と2人、インクでまっ黒に汚れた顔を見あわせながら、刷りあがった案内状を一枚一枚大切に点検した。
その案内状には、こう書いてあった記憶がある。
天声開説講演会、三月二十一日
於…渋谷区東住協ビル
仕上がりは決してほめられたものではないが、2人の熱い観いがこめられていた。インクの匂いがツーンと鼻を突く。そのビラを、私たちは街頭で配ったり、住宅のポストに入れたりと、暗くなるまで撤き続けた。それこそ、どれだけのビラを配り、投函しただろうか。
だが、その夢中の作業のなかにも、醒めた気持ちが入りこんでいた。私はまだひとつのことにこだわっていたのである。それはいうまでもなく、自分のドモリである。それに加えて何を話せばよいのか、という不安もよぎった。
ふっと気づくと、本屋に入って人生論コーナーに立っている自分がいる。それらしい立派なタイトルの本をパラパラめくると、なるほどいいことが書かれている。気の利いた文章もある。私はそのなかから数冊買い込み、ビラを配り終えるとすぐに部屋へ帰って読みふけった。
しかし、不思議なことに、本屋で立ち読みしていたときには感銘を与えるように見えていた言葉が、妙に白々しく感じられるのである。いい話だと感心したものが、なにか嘘のような気がするのだ。ましてや、
「だめだ、こんなことオレには話せないし、話したくもない。第一、こんなにたくさん覚えきれるわけがない」
という拒絶反応まで起きてしまったのである。またもや私は、大きな壁にぶつかってしまった。きれいな言葉、感動する話、ためになる話題を捜していた自分に、失望という壁が立ちふさがったのである。
しかし、開説会の時間は、そんな自分に容赦なくどんどん迫ってくる。だが、依然として何を話せばよいのか見えてこない。悶々とする日々が続いた。考えれば考えるほどに、自分の才能のなさに腹が立ってくる。とうとう私は、慰めにも似たひとつの合理的な考えに染まっていった。
「オレは35歳の青二才だし、無名だ。そんな誰とも知らない若い人間の講演会を聞きに来る物好きもいないだろう。それに、天の声といったって、だれが信じるだろうか」
まだまだ、天声の偉大さに気づいていなかった。