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第五章 法源

【5】

私は週1回の野宿について、講演会で少し話したことがある。するとどうだろうか。たちまちのうちにその話が広まって、大勢の方が私と同じように、週1回野宿の行をするようになったのである。

「みなさん本気で生きていらっしゃる」

私はうれしくてしかたなかった。良いことは積極的に自分のものにしていく。その素晴らしい生きざまのできる方は、同じ80年の人生であっても、一般の方よりも十倍、百倍の人生を楽しく味わっているといえるだろう。

地球を背負い、天と向かい合って目覚める。その体験のおもいの大きさは、その家系の未来を最高のものに変える力をもっている。ましてや、そうした素晴らしい力を、いまこの人生で発揮できることは、これもまたぜいたくのかぎりである。

ところで、私は講演会で質問をお受けしているが、その質問のなかでいちばん多いのは、

「ここは、本物ですか」

というものである。さすがに、最近は少なくなっているが、講演会を始めた当初は、それこそうんざりするほどに毎回のようにあった。その質問に対して私は、

「自然の法則に沿った、あたりまえをるところ。そして、答えの出るところ」

と、答えている。

このようなことがあった。はじめての著作を出版した直後のことである。大学の助教授と名乗る方から電話相談の申し込みが入った。さっそく電話口に出てみると、私の本に対して「あの文は良かった」「この意味がわからない」といった話ばかりをしていて、なかなか相談が始まらない。

私はその助教授の言葉にいちいち相づちを打って、感想に聞きいっていた。この本は私の人生のなかでもはじめての本だったので、他人の感想が気にかかっていたからである。しかし、その助教授の話を聞いていると、「天声」も文字にすると、勝手な解釈をする人がいるのだと気がついた。

もちろん、内容は「天声」から出たままである。だが、文字にしてみると直接的すぎて無骨な感じがするのである。出版社のほうでも、その直接的な表現に、「このままで、ほんとうに大丈夫ですか」などと言われる始末であった。

しかし、いつも「天声」と接している私にとっては、本にしてみると新鮮で、味わいのあるものに感じられたことはたしかである。

そうこうしているうちに、とうとう本命の質問が電話のむこうからやってきた。

「あなた、これ本物ですか?」

そのとき、「天声」が下った。

「本物か、本物でないか、あなたが決めなさい!」

質問も唐突ならば、「天声」も突然であった。

私は、そう伝えると、そのまま電話を切ってしまった。腹を立てて電話を切ったのではなかった。「天声」の波動が、私をそうさせたのだった。

そして私はといえば、その「天声」を何度もかみ締めるように口にしていた。

すると、ふたたびその助教授が電話をかけてきた。

私は「きみ、失礼じゃないか」と言われるものと、覚悟を決めていた。ところが、

「いやぁ、参りました」

という言葉が電話口から聞こえてきた。拍子抜けした私に、さらにこう続けた。

「私も大人げなかったのですが、三十代の著者の本にしては、ずいぶんと立派なことが書かれていたものですから……。まあ、ごかんべんください」

気味が悪いほどにていねいな言葉づかいである。その助教授が言うには、

「立派な言葉の本は多いけれど、著者がなんにもわかっちゃいない。そういう一人なのかどうか、気になってしかたがなかった」

ということである。

これが学者の弁である。いったい何がわかったというのだろうか。たしかに本は文字の羅列である。その言葉の意味や、表現方法など、さまざまに分析、解釈できるだろう。しかし、私はそのようなために本を出版したわけではない。

一人でも多くの方にほんとうの生き方をしてもらうために、そのきっかけづくりのために本を出版しているのである。

このような頭でっかちの方は、せめて野宿でもして、地球を背負い、天と向かい合って朝を迎えてみることである。

《 目次 》