第四章 実証
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さて、私のところへもってこられるご相談で、いちばん多いのが「出会い」についてである。つまり、「赤い糸」の行方はどうなっているのか、あるのかないのか、どうすればよいのか、といった内容が多い。
ご相談の対象は、自分自身のことはもとより、自分の恋人であったり、婚約者であったり、ときには夫婦間の「赤い糸」に対してであったりと多方面にわたっている。
もちろん、私は出会いにはいっさい干渉しない。お見合いを勧めるようなこともいっさいない。「天」に伺うだけである。個人的観測などはさむ余地もない。
人間個人としての私的な部分の福永輝義と、「天声」を伝える天のパイプ役の福永法源とは、当然、違ってしかりである。しかし、私の食事風景を見て驚きの声をあげる人や、私を神様や仏様のように思っている人がいるように、ときとして、その区別をつけるのが難しいときもある。
もちろん私自身、そのような微妙な立場に置かれていることは、重々承知しているつもりである。とくにご相談を受けるときには、細心の注意を払い、「天意」のままにやらせていただいている。
しかし、ときとして福永輝義と福永法源を混同されて、思いもかけぬ方向に話が進んでしまうこともある。これは笑いごとではすまされないことである。注意をうながす意味からもここに顚末を記しておこう。
それは修行最終日のパーティの席上だったと思う。ある男女の行者さんがいた。もちろん、赤の他人の2人である。修行を終えたばかりの人たちが
そんな興奮のなか、私も修行を無事に終えられた安堵感と、行者さんのよろこびに満ちた顔を眺めながら、その場の雰囲気に身をまかせていた。そして、ついついお二人にこんなことを言ってしまったのである。
「夫婦みたいだね」
もちろん、私としては、福永輝義に戻って、個人的に冗談をいったつもりだった。ところが驚いたことに、お二人はその気になってしまったのである。
女性は結婚をしており、子どもが1人いた。男性は、まだ職にも就いていない状態である。その2人が、舞いあがってしまったのだ。
しかし、そうした事情はともかくとして、この2人ははじめから「赤い糸」のご縁がなかったために、そう深い仲にもならず、問題を起こすまでには至らなかった。
その後、いきさつをそれとなく聞いてみると、きっかけは、私のあのひと言だったらしいのである。あのひと言を聞いた瞬間、お二人とも「天声」と勘違いしたらしいのである。これには、私自身ほとほと困惑したものだった。
そのときに思ったのは、
「福永輝義個人の言葉であっても、人は福永法源の言葉として受けとる」
という事実である。この体験は、私にとって幼いころのドモリがまたぶり返すような一大ショックであった。安易に冗談も言えない。そんな立場の肩苦しさに、しばらくはだれとも口をきく気がしなかったほどである。
公私にわたって拘束されることは、「法源誕生」のときから覚悟を決めていたことであったが、このような現実を突きつけられると、まさに言葉を失ってしまう。天のパイプ役という立場の厳しさ、責任の重さをヒシヒシと感じさせられた一件であった。
さて、失敗談は別にして、素晴らしい出会いは、自分勝手にはできないものである。なぜならば、出会いには相手が必要だからである。いくら自分で思い焦がれていても、相手がだめならばそれまでである。
「不思議な縁、不思議な糸はこの世にある」
と「天声」にあるように、それは、本人の問題であって、他人も両親も口出すべきことではないのである。ましてや人は、計算でも、打算でも、惰性でも、一時の感情でも、結婚してはいけないのである。さらに、愛情が通いあっているというだけのことでも、安易に結婚してはいけないのである。
それは本物の結婚とは、そういったものではないからである。人間として、互いに高めあう出会いでなければ、結ばれてはいけないのである。どれだけ相思相愛といったところで、そこにお互いの
これは、世界共通の真理である。どのように国籍、言語、風習、人種、習慣が違っていても、結ばれる法則は一つである。
この世の中には、高めあう出会い、というものがある。
なぜならば、出会いとは、生きざまの結果でしかないからである。プラスならばプラスの出会いを引き寄せ、マイナスならばマイナスの出会いを引き寄せる。これしかないのである。
一般的な常識からいえば、愛がなければ結婚するなということになるが、実際のところ、この愛で結ばれたカップルがなぜに大量に離婚していくのであろうか。それこそ、こんなにはっきりと答えが出ているにもかかわらずである。
だからこそ、恋も愛も尺度にはならない。もちろん、お金持ちの相手だの、かっこいい人だのといった頭の計算による愛など、ますます自分の生きざまを悪くするだけで、結婚したとしても先は見えている。
たとえお金持ちの家に嫁ぐことができたとしても、お金では償いきれないほどの苦を刻むことになる。だからといってお金持ちの相手が悪いといっているわけではない。すべては「本物の出会い」にかかっているのである。これはかっこいい相手であっても同じことである。
それにもかかわらず、これらを無視して、一般常識的な気持ちに流されて結婚などをすると、生きざまを悪くするどころか、それまでの自分の徳、先祖からの徳さえ失ってしまうことになる。
ときには、そうした最悪の結果を背負って、私のところへ訪れる人もいる。このような人にかぎって、相談の最初から「愛が消えてしまった!」と、それこそ大騒ぎである。相手に対しての恨みツラミばかりが続々と口汚く流れてくる。どこに愛があったのかと、まったく不思議に思うほどである。そのように、ニッチモサッチモいかなくなってしまった人の相談に応えることは、私のもうひとつの