第六章 救済
【1】
世の中に振りまわされてはいけない。「天意」のままに恐れることなく行動すればいいのである。私はときどき自分に言い聞かせている。
とはいえ、あたりまえの通らない時代に、あたりまえを説くことの難しさは、ここのところさらに加速しているように思える。少なくとも10年ほど前までは、まだあたりまえを素直に受け入れてくれる人々がたくさんいた。
しかし、10年前と同じ内容のことを繰り返しているにもかかわらず、現在は素直にスッと受け入れる人が少なくなっている。とくに「定めの金額が高い」という非難は、10年前にはなかったことであった。
現在と10年前では、貨幣価値も違っている。10年前の価値は、現在とくらべてたしかに高かったはずである。それでもなお、なにひとつとして非難を受けることがなかった。
それはあたりまえのことが、まだ通じていたからである。
口さがない人は、「人類救済になぜお金を取るのか」などというが、これも「高い」という人と同レベルにある。あたりまえが通用しないのである。自分の尺度で、自分の都合のよいことしか考えないのである。
考えてもみればいい。そのような人たちは、自分の生きざまの悪さで、さまざまな問題をかかえて苦しんでいるにもかかわらず、そのさまざまな問題は、自分が生みだしたものと思っていないのである。
ましてや、その自分が生みだした問題を解決するのに、「高い」「ただでやれ」と暴言を吐くのは、もう、この時点で人間失格である。救いようがないといってよい。
これからも続く自分の人生に対して、あまりに無責任すぎる。本気で自分の生きざまの非を認めたならば、本気で変えるくらいの気概をもたなければなるまい。そのために4泊5日の修行が「天」によって用意されたのである。
はっきりいえば、生きざまの悪さで得た財産などは、捨ててしまえばいいのである。それができれば、いますぐ変わる。それこそ数字ではあらわせないほどの大きな財産を得たことになる。
そうしたさまざまな問題を生みだしてしまった最悪の生きざまからの財産などは、少しでも残しておけば、それだけまた問題を生みだす原因となってしまう。なぜならば、その財産には、その人の最悪の
その人の死後においても、その最悪の
しかし、よろこびに満ちた最高の家族を築いておけば、何兆円の財産を残したとしても、なにひとつとして問題は起こらない。スムーズに子孫へ引きつがれていくことだろう。
なにごとにおいても、問題を引きおこすのは人間である。財産そのものが悪いわけではないのである。しかし、同じ財産であっても、醜い争いと、スムーズな引き渡しという2つの道に別れる。そこにはほんとうの人間を築いてきたかどうかの差が出ているのである。最近は(本書初版当時)家族ぐるみの修行参加が多くなっているが、そのことに気づいた人たちが多くなってきたということであろう。
もちろん、家族間の引き渡しは、目に見える財産だけではない。「人間法源」という目には見えない財産の引き渡しもあるということを知っておいてほしいと思う。
すでに現在は、あたりまえの通らない時代に入っているが、このような現状を見越してか、「天」からしきりに注意をうながす「天声」が送られてきていた。
その「天声」がまず下ったのは、昭和55年7月15日である。あのころの私は、ようやく「天声」というものがわかりかけてきたばかりであった。
そして、昭和64年1月6日午前2時、いつものように午前0時から
それは法源誕生から満9年目の瞬間であった。そのとき稲妻のような波動が
その日は、年末からの「天声」によって、300名大特訓が示され、その修行がやっと始まった最中のことであった。
それに続いて、「救済の方程式」も示された。いま想い出しても、身震いするような厳しい波動であった。
翌朝は、昭和天皇が御崩御され、国内中は静まりかえっていた。