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第五章 法源

【9】

さて、要望の件に話を戻してみよう。

私のところへ持ちこまれた要望は、「おもいの定め」について、参加者の自由にしてはどうかという答申であった。しかし、結論からいうならば、「天声」で示された「おもいの定め」は、変更されることがなかった。

このような要望が若い人たちから生まれてきた背景には、社会的な変化や世間の動きというものがある。考えてみれば、この4泊5日の修行が「天声」で下ってから、経済情勢も変わり、金銭感覚も変わった。

それからしばらくして、その要望と同じようなことが他からも言われるようになってきた。たとえば、「定めの金額が高すぎる」「救済なのに、どうしてお金を取るのか」などといった意見である。

もちろん、このような意見は、本気で修行を受けようという気のない人たちからのものである。しかし、無視することができないほどに、その波紋は広がっていった。

私はこうした声をまとめ、「天伺い」をしてみることにした。すると、次のような「天声」が出たのである。

「日本人1億人を敵にまわしても、まだ人類50億人いる」(本書初版当時)

いつにも増して過激な「天声」であった。そのままストレートに受けとれば、まるで戦線布告のような言葉に思えるが、これは私たちに対する〝激励〟の言葉であった。私は聞いた瞬間、いささか動揺したものであるが、その言葉の裏に、

「まだわからないのか」

という「天」からの温かな叱咤激励であることを感じとっていたのである。

そして、人の声をまたもや気にした自分が恥ずかしくもあった。私の使命は、聖人ぶることでもなければ、世間にご機嫌をとることでもない。「天意」のままに、らせていただくことなのである。

これは最後に示された救済事行じぎょうである。どのような誤解があろうとも、「天意」にしたがって完成させるしかない。しかも、「天」によって示されたこの修行は、中途半端な決意や「試してみようか」などといった軽い気持ちでは通用しないのである。

あくまでも、真剣勝負の5日間である。

「道徳、哲学、宗教を超越したところから、すべてが始まる」

と「天声」にある。そこには人知では計り知れない判断によって、「おもいの定め」が決まったのである。

その「おもいの定め」の扱い方についても、先ほど少しふれたが、私でさえもふれることができないのである。係の者が、白い手袋でていねいに扱う。あくまでもその定めた方の「命」として、一から十まで、「天声」の示すとおりに扱われているのである。

人為が入りこむ隙間がない以上、世間に気後れする要素などはなにもない。

たしかに、法源(これは個人名ではなく本物の人間を意味する)でない人、頭の付いた人から見たならば、「天声」は非常識で、無情に見えるかもしれない。しかし、「天声」は必要だから下るのである。

「天」におもいを定めるとは、根こそぎ変わるということを意味する。その人の命そのものなのである。

非常に誤解されることの多い「おもいの定め」であるが、これはお金ではない。定めた人の命である。その人の生きる力、要するに生命力そのものなのである。その人が人生を変えるための「腹くくり」なのである。

だからこそ、定めた瞬間から変わるのである。

本気で生きたいと思うのであれば、人生に一度くらいはおもいきり自分に勝負をかけてみることである。反論があるというのであれば、その前に命がけの勝負に挑んでみることである。

本気で人生を生き抜く力は、命の次に大切な自分の財産をすべてかけるくらいの決断を必要とする。頭の中でグジグジと考えていても、現実などはひとつとして変わらない。ましてや現実を変えるのではなく、自分を変えることが自然の法則なのである。

人類救済は「天声」にしたがうのみである。その自分を変える超越した「生きざまの切開」ができるのは、人為ではなく「天意」のみであるからだ。

《 目次 》