1. HOME
  2. ブログ
  3. 法源 大バカ人生
  4. 第六章 救済【9】

第六章 救済

【9】

さて、最近(本書初版当時)はメディアでずいぶん「法の華」が取り上げられ、それによってかなりの誤解を世間に与えてしまっているようである。知人から「なぜに反論しないのか」と催促されることもあるが、それでどうなるというのであろうか。

すでに誤解と偏見の意識をもってしまった相手に、どのような理論理屈を向けたとしても、それはまた、理論理屈となって返ってくるだけのことである。そこには、なにひとつとして救われるものはないのである。

理論理屈で武装した某教団は、そのよい見本ではないだろうか。大学院を卒業したような知識人や技術者が弁舌たくましくマスコミとやりあっていた光景は、ほんの1年ほど前のことだ。誘拐殺人事件などで起訴されなければ、マスコミもタジタジだったのではないだろうか。少なくとも「法の華」には、理論武装して戦えるような人間は一人もいない。

理論で戦う必要などまったくないからである。そのようなもので勝つよりも、いまの生活に勝つ(実証)ことのほうが大切なのである。マスコミと理論理屈の投げあいをしたところで、それは何ももたらさない。

結局は、「おもいの定め」という「天意」と、「法外な金額だ」という「人知」の受けとり方の違いだけである。そこが問題視されるのは、常識では「おもいの定め」についての「天意」を完全に理解できないからである。

しかし、そのような問題は、やはり起こすべき人が起こしているのであり、本来ならば問題にならないことなのである。どのようなことでも問題にしたがる人は多いが、そのような生きざまには、よろこびを生産する力はない。反対に、問題という苦を一つ余分に背負いこんで、かぎられた人生の時間をつぶしているだけである。

その生きざまは、それだけにはとどまらず、同じように問題を引き寄せて、苦悩することになる。……これ以上は論に陥るのでやめておこう。

あるとき、

「最近はテレビなどで、ちょっと騒がれていますから」

と、連日の騒ぎについて安心させようと、私は実母にあたる理事長に車中で伝えた。心配しているのではないかと、内心少し思っていたからである。

「あ、そう」

理事長の返事はそっけないものであった。私はそれを聞いて、理事長にちゃんと伝わったのだろうかと、おもわず顔をのぞき込んだ。すると、

「これまで、3回あったじゃないの。そのたんび、デコなって……」

と、なんの動揺も見せることなく、いたって平常な口ぶりで答えてくれた。そして、感慨深げに、こう続けた。

「4回目じゃねぇ。もっと、デッコなれ、ということじゃねえ……」

「デッコ」とは、山口弁で、「大きく」の意味がある。

私は、過去3回ほど世間にもたらされた騒ぎを思い出していた。

それに象徴されるものは、「億万長者」「貧乏人」「病人」など、「天声」をそのまま告げる私の言葉の端々だけを、興味本位で取りあげていることであった。今回は「おもいの定め」が誤解を受け、またもや矢面に立たされたわけである。

彼らはその「天声」の言葉の奥にある、真意をくみ取れないのである。もちろんそれは無理からぬことかもしれない。頭や常識でとらえても、それは理解の範ちゅうを超えているからである。

しかし、私たち人間の真の救済は、ただの理想論や道徳では絶対になし遂げられないのである。

五十数億人(本書初版当時)の一人ひとりに、自分自身が「自然の法則」からいかに外れているかということや、どんなに間違った生きざまをしているかに気づかせること、あるいは、本来の生きざまを取り戻させることなどは、そんなきれいごとではできないのである。

手を合わせれば幸せになるとか、お経を唱えれば平和になるといった、美しい理論ではほんとうの人類救済にはならないのである。もしそうだとするならば、すべて解決済ではないだろうか。

しかし、現実はどうだろうか。平和といったところで、それは言葉のお遊びでしかない。具体的になにひとつとして示されていない。いわば実体がないのである。〝平和〟という言葉が独り歩きしているにすぎない。

なぜならば、平和という言葉のために戦いをするという現実があるからである。武装して戦わなければ、平和はないのである。だれも承知していることであろう。

平和という美しい言葉は、「人知」では解けない。頭でやることではないのである。平和そのままを「る」ことなのである。決して武装して勝ちとるものではないのだ。これは私がマスコミに反論しないのと同じ理由である。

たとえば、かつてお目にかかったマザー・テレサ女史にしても、彼女を素晴らしいといっているだけでは、なんの役にも立たないのである。これは平和という言葉と同じである。

マザー・テレサ女史を素晴らしいという前に、自分がマザー・テレサ女史に成ることなのである。「法の華」流にいうならば、マザー・テレサ女史を「る」ことなのである。あるいは、釈迦やキリストが素晴らしいというのではなく、釈迦やキリストそのものに成ること、「る」ことに意義があるのだ。

しかし、この釈迦やキリスト、マザー・テレサ女史を「る」という「行」について、世の中の偏見と誤解はあまりにひどすぎる。

ひどい誤解になると、この「行」を「洗脳」だ、「暗示」だ、あるいは「マインドコントロール」だなどと勝手に決めつけて、それで論破したようなつもりになっている評論家がいることである。

しかし、少なくとも、「行」と「洗脳」は、根本的に違うのである。それこそ、まったく別の次元のものであり、180度違うのだ。

たとえば洗脳とは、本人の意思、つまり魂を抜いてしまうことである。そこには、人間としてのよろこびの姿さえない。まさに無表情であり、自分のなかからき出てくる喜怒哀楽などはいっさいない。

このことは「法の華」とは正反対にあるものだ。前述したように、「法の華」は、喜怒哀楽を全開させて、自由な自分に解き放つことにある。

いずれにせよ、理屈だけでは平和は実現しない。マザー・テレサ女史にも釈迦やキリストにも成れない。「行」はらなければわからない。

《 目次 》