第五章 法源
【1】
朝焼けの日は雨になるという。いつだれが発見したのかわからないが、素直に天空をあおげば、必ずどこかで自然は答えを差し出しているものである。
もちろん大自然の懐に身を置かなくても、それは感じとることができる。たとえ大都会のビル群のなかにあっても、自分のなかにある大自然に耳を傾ければ、語りかけてくるものを感じとることができる。
天のパイプ役という重大な役割を担って孤軍奮闘する私も、ときとして小さな迷いに遭遇するときがある。やはり生身の人間である以上、なにかの拍子に、フッと気の抜けるときがあるのだ。
しかし、私はそのようなときに、必ず、自分の胸に手をあてる。
目を閉じ、
「ああ、いまもこうして生かされているんだ」
そんな素直な気持ちが私の心のなかにいっぱいになる。ありがたさと感謝が全身に染みこんでいく。生かされていることのよろこびが、より増して
そのときから「がんばらねば」という素直ないつもの自分に戻っている。なにはともあれ、立ちあがって「天意」のままに
さて、はじめての天声が私をつらぬいた日から、私は毎日午前6時と深夜12時に
その日によって、その会話も違う。なぜならば、
「ああ、いったいなにをそんなにクヨクヨしているのだろう」
「なにをそんなに悩んでいるのだろうか」
「まだ、自分を握って、マイナスを刻もうとするのだろうか」
そう声をかけたくなるほどの衝動に駆られることもある。これは
「さあ、立ちあがって、夢や希望を吐きなさい。ただただ繰り返し、徳積みの道を歩みなさい」
私は通りのよくない人たち一人ひとりに、そうした
とはいえ、自分の「生きざま」に振りまわされてしまうのは、私にも経験がある。
昭和59年のことである。38歳になっていた私は、『なぜ金持ちになろうとしないのか』『億万長者になる法』という本を立て続けに出版した。この2冊とも、たいへんな反響を呼んで、ベストセラーにも入った。
タイトルだけ見れば、なにやら金もうけのノウハウを満載した「金持ち指南」の本に見えてしまう。実際のところ、そうとらえていた人が圧倒的多数ではなかったろうか。
しかし、読んでみたならば、その中味はまったく違う。そこには、数字がない、算術もない。利率のことや投資対象の選び方といった項目などもいっさいない。
「なんだ、これは億万長者とまったく関係ない本じゃないか」
と、思った人もいたことだろうと推測する。このようなストレートな本の題名は、これまでなかったこともあって、注目を集めたことはたしかであった。しかし、億万長者といえば金もうけのことだと短絡的な思考になってしまっている世間に、私は逆に驚かされたものである。
さて、この出版と前後して、
「億万長者養成・器づくり特訓を行え」
という「天声」が出た。
この修行こそ、その後に続く修行の第1弾であった。人間完成のための修行である。
「その定めは、5万円以上」
と告げられた。
当時の私は、5万円と聞いて、飛び上がるほど驚いたことを覚えている。
「これはどういうことなのか……」
と、妙に浮き足立って、あわてふためいたものである。だいたい、1泊2日で5万円ともなれば、修行生のために用意する料理も宿泊施設も、それにふさわしいもてなしをしなくては失礼だろう、などと勝手に考えこんでいた。
要するに、34歳までの私の生きざまがそうさせていたのである。よせばいいのに、私はまた頭の中で計算を始めていた。これは「
いまでは懐かしい笑い話であるが、当時はそれこそ真剣に、「食事は懐石料理で、宿泊は一流の宿にしないと、誰も納得しないのではないか」と考えていたものである。しかし、そうした勝手な計画を立てていた私に、「天声」がすぐさま下った。
「ばかもの! おまえは何を考えているのだ。これは特訓料ではない。
なさけないことに、私は自分の生きざまによって、「天意」を推し量ることもできなくなっていたのである。しかし、それに続く「天声」によって、私はようやく「天意」をはっきりと理解したのだった。
ここにいう「5万円の
いわば、それを差し出すという「
これは私個人が考える領分ではなかった。少なくともそこに「私」が入りこむ隙間などないのである。すべては「天」におまかせすることであった。
よくよく考えてみれば、5万円とはいえ、ぜいたくな食事をし、高級な旅館に泊まったならば、それで終わりである。しかし、この器づくりに参加した人は、自分の生きざまを変えるという、もっと大きな宝物を得ることができるのである。
その宝を金額に換算することは絶対にできない。しかし、それによって、その人が何億円を出しても買えない宝の持ち主になることができる。いわば、億万長者としての器を手にすることができるのである。
私は計算をやめた。そして、ごく普通の修行会場を準備したのである。
修行の修了時、参加した人々の目はキラキラと輝いていた。「天」に間違いなどあろうはずがなかった。なんという素晴らしい実証がもたらされるのかと、私はあらためて「天」の偉大さに驚き入ったものであった。
「これが、
私の胸は