第二章 是空
【2】
母が帰ってきた。
小学4年生になろうとするころである。
その喜びはいまでも忘れられない。母が帰ってくるという話を聞いたのは、2、3週間前のことであろうか。暇さえあれば指折り数えていた。それほど、その日の来るのが待ち遠しかった。はやる気持ちには一日が非常に長く感じられるものである。時計と暦を毎日眺めては、その日の来るのを待った。
そんなけなげな私を見て、少しでも早くと、伯父は私の手を引いて宇部まで連れて行ってくれた。その日は、寒い日であったような気がする。口から白い息が漏れていたのをおぼろげに記憶している。
母は、大きな風呂敷包みを持っていたが、都会のセンスを身につけたまぶしい女性に映った。顔はぼんやりとした記憶しかない。きっと恥ずかしくて母の顔を直視できなかったのかもしれない。
もちろん定番の「おかあさん!」などという劇的シーンはなかった。無言のままに母の
泣いた。私はあたりかまわず泣いた。
これまで我慢して溜めていた涙が、母の姿を見たとたん、一気に吹き出したような泣き方であった。そこには、会えた喜びと、母への甘えと、独りぼっちにした抗議とが入り交じる複雑な感情があった。
母が帰郷してから、私の環境は変わった。まず、母の実家を出られたことである。母は宇都市内に粗末な家を借り、そこで新生活を始めた。借り家は6畳一間、南側に曇ガラスがはめ込まれた小さな窓があるだけだった。物置同然の家である。
住んだのは、私たち親子2人だけではなかった。やはり戦争未亡人となった女性と2人の女の子の計5人の共同生活だった。自分よりいくつか年上の女の子がいた。すでに戦後の辛酸をなめてきたのであろう。それだけに私に優しかった。
新生活が始まってみると、そこは家庭というよりも、
私の仕事といえば、ときたま針に糸を通すことくらいである。
「輝ちゃん、針」
同居の女の子が、母親たちが頼む前に、それを察知して私に催促する。母が手元を休めて、私がしゃべるのを期待して見ている。
「……」
私はいつもどおりに無言で針を受けとり、黙ったまま糸を通して母へ渡した。しかし、母は嫌な顔をすることがない。
「ありがとう」
と微笑みを返すと、そのまま仕事に向かった。このときの私は、自分の名前の「てるよし」の「て」の音さえ出せない状態である。私はいつしかしゃべれなくなるのではないかといった不安に襲われていた。だが、その心配は私以上に母のほうが強かったようである。母はしゃべれない私を治そうと、必死に写経を続ける毎日であった。
縫裁の仕事もメドがたったころから、母は私をつれて寺院参拝の旅に出るようになった。
秋穂八十八ヵ所参りは何十回になる。そして病院や、拝み所などにも足を向け、ドモリの矯正に励んだ。
しばらくして、同居の一家は引っ越していった。やっと母子二人水入らずの静かな生活に入ることができた。
そのころ、私は小学校の教室で、冷や汗をかく毎日を送っていた。小学校では、返事はちゃんとしなければならないからだ。家のようにはいかない。言葉が出ないたびに冷や汗が身体ににじんだ。
私が学校から帰ると、母は待っていたように、私をつれて地蔵堂参りに出た。市内中心部から瀬戸内海側へ少し歩くと、7つのお地蔵さまを祭る
この地蔵参りは、週に3〜4回。ほかに、小串通の西法寺へ、週2〜3回。母が「行くよ」と声をかければ、それは寺参りのことである。好き嫌いは別にして、これは母の絶対命令でもある。私は黙ってついて行くしかなかった。
西法寺では、和尚にそっぽを向いて寝そべっていることが多かった。さらに、松濤神社にも、週1回は母と詣でた。いわば毎日が寺社のお参りである。
しかし、はっきりいって私は、お寺もお堂も好きにはなれなかった。