第七章 超宗
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あれもこれもと考えているうちに、人生はあっという間に過ぎていく。「なぜ生きているのか」などと、渋い顔をして考えていることはない。わからなくても、
さて、これまで本書では、ひとつの流れに沿って、34歳までの私、天声を聞く身になってからの私、法源とは、救済とは、といった順番に語ってきた。
いまとなっては懐かしい話も多い。しかし、その全編を通して、人為では、一瞬たりとも生きられない大バカぶりの私を知って、読者は驚きあきれているかもしれない。
しかし、これは、わたくし福永法源だけが特別なのではない。いまの世の中は、だれもが人為ではほんとうには生きられないのだ。
もはや人為(人知の範囲)ではなく、「天意」にもとづいた生き方を私たちは迫られているのである。すべて「天声」のとおりに、「天の青写真」が示す人間完成の道を歩むことなのである。そしてその道は、人類救済につながっているのである。
これこそ「天の救済・超宗」としての道程であった。
さてここで、「宗教」についてひと言ふれておこうと思う。
よく質問されるものに、「人間に宗教は必要か」という問いがある。私には、答えることはできない。ただいえるのは、次に示されたいくつかの「天声」である。
「キリストとキリスト教は違う。仏陀と仏教もしかり」
「善悪にとらわれて、振りまわされているのが、信仰深い人の生の姿である」
「宗教が万能である、という思いあがりが、次々と弱い人間を作りだす」
これは、安易に宗教を
つまり、人間は人間として、自然の法則のままに、最高の
必要以上に善悪にとらわれると、排除の理論が生まれる。某教団もそうであったが、正義のために人を殺すことになるのである。少なくとも宗教であるならば、憎しみや恨みを他に向けてはならないだろう。
向けるのであれば、それは〝よろこび〟だけである。よろこびはいくらでも人に向けてよい。なぜならば、それが生命力の源であるからだ。私たち人間の生きる力は、よろこびによって発揮されるのである。
このよろこびには、善悪はない。たとえば愛には愛憎という裏表があり、平和には戦争という裏表があるように、私たち人間には非常に難解で扱いづらいものであるが、よろこびに関しては、それがまったくない。ストレートである。
たしかに、キリストの時代においては、愛を説くだけで、十分に人類を救済できたことだろうと思う。しかし、いまの時代においては、愛を説いても受け皿となる人間が、それを使いこなせなくなってしまっているのである。
キリストの愛の救済も、自然の法則にもとづいて説かれたのであろうが、その自然の法則ですら現代社会では通用しない。いわばあたりまえが通らなくなっているのである。
考えてみれば、自然の法則を知らずに、人生を歩むなどということは、それこそ無謀運転そのものである。交通標識の意味も知らず、ハンドルやブレーキの使い方もわからないまま、人生という道路をめちゃくちゃに突っ走っているようなものである。
それでは当然のごとく、いろいろなところで事故が発生する。追突もあれば、単独事故もあるだろう。相手に怪我をさせてしまうこともあれば、
これらは、生き方がわからないために、引きおこされることばかりである。ちゃんと自分自身を運転操作できたならば、人生という道路は、実に軽快で愉しいドライブになるのである。
私は運転教習所の前を通ると、いつも「同じような仕事だなあ」と思って眺めている。
運転教習所では自動車の運転操作や交通ルールを教えているわけであるが、私のところも簡単にいえば、自分という乗り物(身・心・
また、教習所の練習風景を見ていると、ギアの入れ方もわからない人や、恐る恐る走らせている人、急ブレーキを踏んでしまう人など、個々の性格によって上達の違うことがわかる。それは、4泊5日の修行風景とよく似ているのである。
そしてよく思うことは、人間にも「免許制度」があったならば、人生道路はもっとスムーズに流れるだろうと、大バカなことを考えるのである。
もちろん、私たちの乗り物(身・心・
そのためにも、本気で運転操作(修行)や交通ルール(自然の法則)をやらないと、いつまでたっても卒業などはできないのである。