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第五章 法源

【4】

生身の人間である以上、私にも誘惑はある。

それは、「ほどほどにやったらいいのに」という、人の声である。

たしかにそうすれば、誤解されることもないだろう。一瞬、それが正論にも思える。しかし、「ほどほど」にやっていたならば、「天」に叱責しっせきされることは目に見えている。「天声」のままに、16年間ってこられたのは、そのすべてが答えになって出ているからである。もちろん「天意」も、十分すぎるくらいにわかっている。

とはいえ、「らなければ恐ろしいから」などといった、低次元での気持ちではない。人間であるかぎり、らなければならないことだから、どんなに誤解を受けようが、ひるまずにっているのである。

そもそも、私たちを生かしている心臓には、体みなどない。本人が落ちこんでいようが、泣いていようが、もくもくと鼓動をうち鳴らしている。この休むことなく打ち続ける鼓動の「生きるリズム」こそ、私たちに必要な生き方なのである。

自然の法則には、中途半瑞は微塵みじんもない。しかも、時間がかぎられている。さらにいうならば、一人ひとりの人生そのものの時間も有限である。そして、かぎられているからこそ、本気で一日、一分、一秒を生きなければならないのである。

この人生のなかで、もっとも恐れなくてはならないのは、「ほどほどに」といった声である。この人知こそ、私たちにとって、もっとも危険な誘惑である。

さて私は、毎週1回、野宿をしてきた。

それは季節にかかわりなく、っている。夕方から始めることもあれば、真夜中のこともあるが、そのスタートは違っていても、大地へ身を横たえて朝を迎えるのは、いつもと同じである。

季節によっては、蛇やあぶや蚊がたかったりとたいへんなときがある。あるいは蟻が列をなして、首筋を闊歩かっぽすることもある。ときには、野良犬がすり寄ってくることもある。はじめのころは、この野良犬にずいぶんと苦労させられた。

しかし、冬場はさすがに寒くて、眠れない。厚着をしてなんとか暖をとっているが、それでもなかなか寝つけないことがある。

だがそんなときでも、朝のすがすがしさは格別である。これを味わうために、野宿をしているようなものである。その素晴らしさは言葉ではあらわしきれない。

まず、一晩で、身体が洗われたようになって、気力が充実している。1週間分の疲れが取れる。これだけでもやった価値があるというものだ。

しかし、ほんとうのところは、目が覚めると地球を背負っている自分を確認できるという素晴らしさであろうか。まっ正面から、天に対峙している自分。そのおもいは雄大である。そんな野宿の行を終えた後のさわやかさは、何ものにも代えがたいものだ。

もしも、こうしてリフレッシュしなければ、たとえ超天行力てんぎょうりきのパワーを自分に向けたとしても、わたくし福永輝義の肉体は今日までもたなかっただろう。

それは、ただただ繰り返しって、少しずつ切開されていく自分の生きざまを楽しむのと似ている。今日一日、また違ったよろこびの上映が楽しみな朝……。答えが出ている朝……。それはぜいたくで豊かな朝である。

「人生は、上映している今よりも、撮影している今が大切だ」

と「天声」は伝える。まさに私たちは、毎日の生活を撮影し、それを上映している毎日なのである。それならば、よろこびに満ちた毎日を撮影し、よろこびに満ちた上映を楽しむにこしたことはない。

私たちの「生きざま」というものは、その人がこれまでにロケーションをしてきたおもいが、現象として現在、目の前にあらわれてきたものである。

わかりやすくいうならば、ブツブツ文句をいって生きていたり、不満だらけで生きていると、そのおもいが現象として、最悪の現実をつくってしまうということである。いわばいまの自分は、これまで自分がやってきた生きざまの結果なのである。

たとえば映画は、撮影をしてから上映である。その逆は絶対にありえない。これは自然の法則であるからだ。しかし、私たち人間というものはなまじ頭というものがあるために、上映してから撮影するといった不自然なことをやっている。

要するに、いまの最悪の現実をつくったのは自分でありながら、その現実に嘆いているといったようにである。これはまったく、自然の法則に反した行為なのである。

つまり、フィルムでもあるおもいをほったらかしにして、現実の生活だけを見て嘆いているということだ。あたりまえに考えれば、簡単なことなのである。おもい(フィルム)を変えなければ、現象は変わらない。

しかし、それがなかなかわからない。

勘違いしてほしくないのは、4泊5日の行は、問題を取るところではなく、二度と問題を必要としない人間に成るスタートなのである。

本来、生きざまは簡単に修正することができない。

40歳の人の生きざまの修正は、同じく40年の歳月を要する。しかし、それでは人間完成を成しえないで人生を終えてしまう人がほとんどになる。

そこで、この最後の救済の時代に、天声によって、この地上に天行力てんぎょうりきが与えられたのである。さらに、「生きざま切開」の行が授けられたのだ。

どのような人であっても、フィルム(おもい)がある間しか、撮影はできない。人生の時間は貴重なのである。それを最悪の撮影で人生を終えてしまったならば、それこそ地獄のままである。それだけは人間としてやってはいけない。

たとえ残り時間がわずかであっても、よろこびのおもいの撮影ができたならば、人生を終えてもよろこびの上映が待っている。これが本来の死にざまであるといえる。

おもいは、人生を渡る唯一の羅針盤である。どのような迷路に陥っても、最高のおもいがいていれば、なにごともなく脱出できる。その羅針盤は、私たち一人ひとりに与えられているのである。これを使わずして、人生の荒波は乗り越えられない。

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