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第六章 救済

【8】

答えの出せないものは、真理ではない。この世の中は、れば答えが出るようになっている。それが自然の法則である。

理論理屈で答えが出ないというのは、っていないからである。ただそれだけである。頭の中でった〝つもり〟になっているだけのことで、そこからはなにひとつ現実を変えられない。

もちろん、私の本を読んだからといって、それで人生が変わるなどということはありえない。何かの刺激にはなるだろうが、それもまた頭の中の出来事であって、現実ではないのである。

どれだけ立派な本を読もうが、どれだけ素晴らしい理論書を手に入れようが、らないことには始まらない。

不思議なことであるが、この世の中には、人生の指南書のようなものがたくさん出版されているが、そのどれをとっても「答え」が示されていない。すべては考え方、とらえ方で終わっているのである。

たとえば、プラス・イメージを強くもてば、プラスに現実は変わり、マイナス・イメージを抱くと、マイナスの現実が再現されるといったように、実に細かな論理が展開されたとしても、それを具体的にどう実践すればよいのかという「答え」をもっていない。

そのような考え方を知っていても、現実は変わらない。なぜならば、それを現実に変えるのは自分自身であるからだ。そのあたりまえがわからなければ、一生、そうした本を読みふけるだけで終わってしまう。

それこそ、死を目前にして、「私の人生とはなんだったのか!」と叫んで終わることになる。らなければ何も変わらないのに、それをらずに、人生を無為に過ごしてしまったというわけである。

おかしなことに、ほんとうの人生を歩もうとしていながら、「る」という簡単なことがわからずに、ただ人生の時間を理論理屈に振りまわされて、すべてを費やしてしまうという人が多い。これを〝後悔先に立たず〟というのであろう。

れば後悔などはない。らないから後悔するのである。その結果がどうであろうと、この人生のなかではらなければ後悔する。これもまた自然の法則である。

ところで、世の中には理論理屈の好きな方が多いものである。この世界に入り込んでしまうと、なかなか頭を取るのは難しい。要するに、理論理屈ばかりが先行して、素直に話が聞けなくなってしまうのである。

なかには私の言葉を抜き出してきて、

「天声なんだから、救済ならば、そのくらいできるだろう」

と、勝手なことをおっしゃる方もいる。それこそ、どうだといわんばかりの調子である。しかし、救済を「天」がすべてやってくれるというのであれば、それこそ人類が発祥したときに終えているであろう。

そのくらいのことは簡単である。しかし、それをやらずに、私などにパイプ役を命じてきたというのは、私たち人間の力でってみなさいと言っているに違いないのである。私は、それを「天意」として受けとっている。

あるときなどは、占い師に誤解されたこともある。あるいは予言者扱いされたこともあった。たしかに、それらしい書名の本も上梓している。しかし、それはあくまでも書名のうえである。一般的な常識で、その書名に接しているために、その範ちゅうでしか受けとれないだけである。

それは『億万長者になる法』といった書名と同様である。題名だけで勝手に推測されてしまうのである。しかし、内容を読んでいただければわかるが、全編これ「救済」のことしか書いていない。

こんなことがある。これは私自身が実際に目の当たりにして感じた話である。

2軒の隣りあった家があった。その1軒は門構えも立派で、高級車も置いてある。高い塀で囲まれた庭には、池や築山があり、芝生も植えられていた。もう1軒は、建物も小ぶりで、塀らしいものといえば、生け垣だけである。

地方講演会の翌日、あまりないことであるが、地元の行者さんの家を訪ねることになった。案内された家は、その生け垣の家であった。門扉はなく、きれいに刈りこまれた生け垣だけの玄関先には、すでに大勢の行者さんが待ち受けて大歓迎をしてくれた。

しかし、「さあどうぞ」と、案内されたのは、その行者さんの生け垣の家ではなく、お隣の立派な家であった。これはどうしたことかとまごついていると、

「うちは狭いので……。お恥ずかしいですから、こちらをお借りしました」

と、照れ笑いをしながらご主人が言った。

立派な家の庭には、もの珍しそうな目で私を見つめるたくさんの顔がならんでいた。

「見たことのない人もいるようですが……」

どう眺めても、精気を失ったような沈んだ顔の人がまじっている。少なくとも修行を受けられた行者さんならば、精気に満ちた元気な顔をしているからである。なかなか頭をもぎ取れない人でも、修行を受けていれば、普通の人よりも何倍も元気であり、活力にあふれているはずなのである。

「今日は、修行を受けてない地元の人も押しかけてしまって……」

かしこまって奥さんが言った。

「そうですか」

と答えたものの、なにかひとつ盛りあがりに欠けていて、いてくるものがない。私は行者のみなさんと法唱ほうしょうをするつもりでいたのだが、それさえもできないほどに、なにか沈みがちになってしまうのである。

その場の雰囲気というか、その家のもつ雰囲気というか、とにかくかせる元気をかき消されてしまうという妙な雰囲気がただよっているのである。それでも、なんとかいろいろと行者さんたちの声を聞いて、和やかな時間を過ごした。

帰る時間になったので、あいさつを交わして立ちあがり、なにげなくその家の庭を見ると、立派な庭のわりには、木に勢いがなく、葉も少ないことに気づいた。よく見ると芝もずいぶんと色あせている。すべてに精気が感じられないのである。

私は帰りぎわに無理をいって、隣の家の庭を拝見させてもらった。こちらは、小さな庭ではあったが、草木は力強く青々と繁っており、そのあたりは、森林のような香りがただよっていたのである。

「なるほど……」

私は一人納得したのだった。

目には見えないかもしれないが、その人の生きざまというものは、すべてのものに反映することを確認させられたのである。その人をあらわすものは、家の造り、門構え、庭の豪華さではなかった。その人をあらわすのは、それらの勢いであった。

いている人の庭には、生命力がみなぎっている。いていない人の庭は、すべてに生命力がない。それがはっきりと見えたのである。

要するに、暮らしている人間の状態も、そのまま庭にあらわれてくるのである。これは、社会や自然にもいえることである。人間の波動が弱いと、すべてのものが弱くなっていく。社会が混乱するのは、その社会を形成している人々の波動が弱いからである。それは自然環境についてもいえることである。

すべての人類がいているならば、森林は復活する。いくら植林をしても、私たちがいていなければ、それは枯れてしまう。小さな庭の出来事であるが、このことは地球全体にもあてはまることなのだ。

くとは、私たちの生命力のことである。生命力とは、他から与えられて生まれてくるものではない。自分のなかにある「生かされている力」を最大限に発揮することにある。その波動が他にも影響を与え、生命力を高めてやることができるのである。

前述した人類存亡の機を回避する「救済の方程式」に、人類の半分のプラス1、という具体策が示されていたが、それはこのことを意味しているのかもしれない。

要するに、人類の半分が生命力を高めたならば、そのもう半分の人類を救済できるという自然の法則である。そしてプラス1とは、その1人の生命力の高さによって、地球全体がプラスの方向に引き上げられるという意味なのであろう。

人間であるならば、くこと。かせて(生命力を高めて)生きることなのである。これこそが、私たち人間に課せられた役目であり、授けられた特権であるといえる。

すべての始まりが、私自身が「天」によってく法を授けられたことにあるように、人が変われば家庭が変わる。家庭が変われば地域が変わる。地域が変われば都市が、国が、世界が……と、変わっていくのである。

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