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第四章 実証

【2】

そのような講演会も、700回を越えた。

簡単に700回といっても、週1回のペースで15年は必要とする数である。それこそ本気でやらなければ、絶対にこなすことのできない数字であろう。しかし、それでもまだ全国をまわりきれていない。

生の「天声」を全国各地すべてに伝えるためには、これからも積極的に講演会を開催していかなければならない。そのことは私の使命であるし、どんなことがあってもやり遂げなければならない目標なのである。

ましてや、講演会においての「天行力てんぎょうりき」を待っている人がたくさんいる。その人の救済をうながすために、私はいつも天行力てんぎょうりきを向けているが、これも講演会には欠かせない約束ごとであるのだ。

しかし、そのような場所で、多くの人に天行力てんぎょうりきを向けると、私自身、深刻な現実に直面することがよくある。

たとえば、がんの人である。そのような人に天行力てんぎょうりきを向けると、その症状をそのまま私が吸ってしまうからである。相手の生きざまを、そのまま吸ってしまうのだ。

そのような方が何人か続くと、きまって私の身体は変調をきたす。

たとえば、如実にあらわれるのが胃腸障害、血尿、下血、血たんなどである。しかし、これらはまだ軽いほうである。ときには、40度の高熱や頭痛、そして震えと急激な体温の低下。全身の湿疹や筋肉痛など、ありとあらゆる症状が私を襲ってくる。

もしも天行力てんぎょうりきをがんの人に向けた後、私の身体を病院で検査をしたなら、必ず末期がんと診断されることだろう。それだけ、最悪の生きざまというものの影響はすさまじい。

講演会を始めたころ、そのすさまじい生きざまに圧倒されてか、1日に3、4人の人に天行力てんぎょうりきを向けるのが精いっぱいであった。それでも、せっかく来られた方をそのまま見捨てて帰すわけにはいかず、無理をして天行力てんぎょうりきを使うことになる。すると、深夜になると、きまって高熱を発したものである。

「ウウーン」

と声にならない唸りであろうか。自分ではわからないのだが、真夜中のことだけに、同じ宿に泊まっている関係者がその唸り声を聞きつけて、あわてて起こしにくることが何回もあった。

私は熟睡しているわけではない。どこかで意識はあるのだろうが、高熱を発しているときには、ほとんど記憶を失った状態に陥っている。とはいえ、あぶら汗の感触やもがいている自分のいることはちゃんと気づいている。

「ああ、今夜もやってしまったな……」

という気持ちはしっかりあるのだ。

ただし、それが天行力てんぎょうりきを使いすぎた結果であることを承知しているので、不安というものはいっさいない。これも人を救済するための苦痛である。逆に、ありがたいと感謝せずにはいられない。

しかし、そんな無理を承知の天行力てんぎょうりきも、そうしたことの経験を数多く積み重ねるにしたがって、使い方も徐々にうまくなってくる。これは車の運転みたいなものであろうか。天行力てんぎょうりきの操作方法がだんだん身についてくるのである。

最近は、どのようにすれば、生きざまの影響をモロに受けることなく、効率よく天行力てんぎょうりきを向ければよいかがわかるようになってきている。とはいえ、やはり生きざまの悪い聴衆が多いときには、その数は少なくなったとはいえ、昔のように高熱を発することがある。

そのようなときは、「私も生身の人間なのだな」とあらためて思い知らされるものである。もちろん、だからといってひるんでいるわけではない。これも私の使命なのだと、大いに発奮することになる。

ところが、そのような私を特別視する人もいるのである。

天行力てんぎょうりきには人知では計りがたい力があるために、普通の人間とは違うと思っているのである。たしかに、ある意味では普通の人ではないかもしれない。「天意」によって力を与えられ、動かされているところは、普通ではないだろう。しかし、そんな私も普通に食事をし、普通に話をし、普通に風呂に入っているのである。もちろん心臓があって、赤い血が流れている。

天声を受ける身だからといっても、私も人間には変わりはない。けっして仙人のように霞を食べて生きているわけではないのである。

しかし、なかにはとんでもないことを言いだす人もいる。

「あっ、先生が食事していますよ……」

「先生は、まったく疲れないんですか?」

とんでもない誤解である。

「ありがたく頂いておりますよ」

「疲れもしますよ」

私は、そのたびに誤解を大きくしないために、そのまま素直に言い返している。このような誤解をほうっておけば、そこから尾ヒレがついて、神様に祭りあげられてしまうことにもなりかねないからである。

そもそも、私は神様でも仏様でも教祖様でもない。天とのパイプ役に指名された「よろこびを売る事行じぎょう家」であって、同じ人間に変わりないのである。

ましてや、私が同じ人間という位置がわからないと、「法の華」自体も誤解をまねくことになる。私が神様、仏様、教祖様でないように、ここには神様も仏様も教祖様も存在しないのである。

あえていえば、これまでの「宗教」という概念を超越した本物の宗教、いわゆる「超宗教」なのである。

信仰の対象としての宗教ではなく、現実の生活のなかで活かせる宗教とでもいおうか。理論・理屈を必要としない本音の宗教であるだけに、その説明は難しいが、基本的には、自分自身を救えるのは、自分自身であって、神様、仏様、教祖様ではないということである。自分自身が「天意」にもとづいて「本物の人間」に成ることなのである。それを私が天のパイプ役としてお伝えしているのである。

はっきりいえば、私たちは人間であって、神様や仏様ではない。人間ならば人間としての道を歩くことが大切なのである。これを私自身が実際に、社会のなかで指し示しているといってよいだろう。

よく食べ、よく働き、よく遊び、よく語らうというように、本来の腹の底からよろこびに満ちた生活を送ることが私たち人間なのである。その本来のよろこびに満ちた真の人間の姿に立ち戻ることが、現世に生きる私たちの使命であるのだ。

「天意」にもとづく宗教は、決して神様や仏様をまやかしには使わない。そこに力があるのではなく、自分自身のなかにあることに気づくべきなのである。その自分を生かしてくれているすべてに感謝すべきなのである。

もしも、ありがたいと思うのであれば、それはいま「天」によって生かされているという現実と、「よろこびの表現体」として存在している自分自身であろう。

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