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第四章 実証

【5】

天行力てんぎょうりきは、奇跡ではない。大自然そのものである。

そこにはすべてが備わっている。不足のものはなにもない。病気が私たちのおもいによってつくられたものであれば、また、それを私たちのおもいで治すこともできるのである。すべては「ある」のである。

「あるのだから、出せばいい。くものは無限。大自然に尽きるものはないのだ」という「天声」のように、天行力てんぎょうりきはほんとうの人間の姿、大自然に生かされている人間本来に戻るための手段である。

大自然に生かされているほんとうの存在に戻ったならば、大自然のパワーがそのまま癒しの力となるのである。決して、いまの苦しみや悩みを消し、健康を取り戻すだけの一時しのぎのものではない。また、「法の華とは、拝み頼るところでも、願うところでも、すがるところでもない。ただることである」という「天声」をしっかりと自分のものにでき、ただれば、「ほんとうの人間の姿」を取り戻すことができるのである。いわば大自然との交観ができるのだ。

その力は無限である。たとえば、大自然の交観ということでいうならば、あらゆるところで、「天」の祝福を形で体験することができる。大きな行事のときに、よく天空にあらわれる「クロスの雲」も有名な話であるが、それとはまた違う「天」の祝福もある。

もう10年以上になるだろうか。はじめて沖縄で「天声開説講演会」を開催したときのことである。

当時、沖縄は記録的な水不足に見舞われていて、本島全土が24時間の給水制限下にあった。私は真新しいホテルに投宿したのだが、そこでさえシャワーを使えない状況であった。

そうした激しい環境のなかで、講演会は開かれた。当日も猛暑で水不足にもかかわらず、天声を聞くために大勢の方々が足を運んでくれた。あまり広くない会場だったが、超満員の盛況であった。

そして、講演が終わりかけたときである。突然、マイクを握っていた私に「天声」が下った。それは、

「この講演が開かれたことで、沖縄の地に天からの恵みが与えられる」

という内容であった。

この「天声」を私はそのままお伝えした。第1回天声開説講演会でもそうであったが、それを話している自分、それを聞いている自分、会場を見つめている自分がいる。そしてこのときも、それを聞いている私は、「天からの恵み」とは何だろうと考えていた。

講演が終わり、会場内は熱烈な拍手につつまれていた。私は一礼して、マイクを壇上に置き、会場の外へ出た瞬間……。

はたして、スコールのような雨が降り始めたのである。道路はあっという間に水びたしになり、歩いていた人たちはみなずぶ濡れであった。

「天からの恵みとは、このことであったのか」

私は差し出された傘を玄関脇に立てかけ、雨の降るなかに立って、大自然の恵みのよろこびを生身いっぱいにしみじみと感じた。

その雨はしばらく続き、沖縄の給水制限は解除されたという。

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