第四章 実証
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ところで、「愛情で判断をしてはいけない」とは、どういうことであろうか。
普通に考えたならば、結婚は愛情でしか判断できないのが常識であろう。もちろん昔から「玉の
要は、玉の輿であろうがなかろうが、愛情があろうがなかろうが、そのようなことはどうでもよいのである。そのような判断基準だけを頼りに、結婚してはいけないということなのである。
それでは、いったいどのような結婚が必要とされているのだろうか。
巷では、若い女性が堂々と、高学歴で高収入で好男子という条件を満たす相手を求めている。若い男性もこれに負けじと逆玉(玉の輿の逆)などといって、好条件の相手を探しまわっている。
しかし、面白いもので、それを求めている女性も男性も、その対象外にあるということだ。そのようなことを言う前に、自分が好条件の人間になることである。もちろん、そのような好条件の人間になっても、集まってくるのが、他人の財布ばかりを狙っているような人たちばかりでは、結果は見えている。
なにを言ったところで、下手に計算が働いているかぎり、いくら汗水流して努力をしたとしても、ほんとうの結婚などは望めそうにない。
面談していて感じることであるが、女性の場合は、「赤い糸」に対して意外に謙虚な受けとり方をしている。それは、だれでもいいという大まかな感覚の男性とは大違いである。これは女性に、次の世代を生むという重要な役割があるためであろうか。
とくに結婚前の女性は、そういったことに敏感である。「天意」がわかっているのである。それとも、新しい生命を宿すという子宮からの本能が、そうさせるのであろうか。
その出会いが正しいかどうかは、自然の法則に照らしあわせてみるしかない。私たちを生かしている本体、「天」の法則に沿うのがいちばんである。それには人知が入らないことが理想である。だからといって、誤解しないでいただきたいのは、これは決して占いなどではないということである。
最近、こんな青年のケースもあった。
その青年の話によると、「とても好きな人がいるのだが、相手がどうしてもふり向いてくれない」というのである。青年はさまざまに原因を考えてみたが、考えれば考えるほど、それらはみんなため息になって返ってくるだけだったという。
そんなときに、私の本と出会うことになった。相当に深刻であったのだろう。彼は本を読んだだけで腹決めをしたのである。そして、見事に彼は、いままでの生きざまを詰めこんでいた頭を取ったのだった。
それからしばらくして、その青年から一通の手紙を頂いた。
「(前略)……頭を取ると、不思議なことに、いままでその異性を憧れの眼差しで眺めていただけの自分がなくなりました。その異性には、自分にないものを求めていたような気がします。でもそのことが気にならなくなったので、自然と冗談を言えたり、その異性の前で肩肘張らずに振る舞うことができるようになり、強く意識する必要もなくなりました。その気持ちはなにも、彼女に対してだけではありませんでしたが、とくに彼女に対しては、彼女が幸せであってくれたらそれで十分だと思うようになったのです。
忘れたころにやってくるというのは、よく使うコトバですが、日常のなかで、彼女から話しかけてくることが多くなりました。私は相通ずるものを感じました。赤い糸の相手と出会えたという気持ちが強いのです。……(後略)」
非常に淡々と素直に書かれている彼からの手紙を読んで、あらためて「頭を取る」ということのすごさを実感したものである。恋は盲目といわれるように、その気持ちが強くなればなるほどに、自分を見失い、そして相手までも見失ってしまうものである。
しかし、現代では、その気持ちを放し飼いにして、勝手気ままに振る舞うことがあたりまえになっている。もちろん勝手気ままが悪いわけではない。悪いのは、そこに自分しか見ていないことである。自分の都合でしか相手を考えない。そのために自分の思うようにいかないとヒステリーになったり、恨んだり憎んだりして、最悪の
その延長は、恋愛だけにとどまらない。日常生活のなかにおいても不平不満が
さて、「頭を取った」青年はやがて、天に伺うことでめでたく結ばれた。これは当然のなり行きといえる。
だからこそ、もし仮に既婚者であっても、天声で「別れなさい」と出たならば、私はためらわず、そのままを伝える。私の個人的な感情や常識的な考えは、いっさい言わない。
ほんとうの夫婦というのは、愛情が冷めることもない。これといった材料はないけれども、なぜかわからないけれども、笑いと満足で満ちている。いつも2人が
「ほんとうの夫婦には、議論の根底に相手に対する素直さがある」
そういう夫婦である。そんな夫婦の子どもには、問題は起こらない。親がよろこびに満ちあふれた生活をしていれば、自然と子どもも素直に生きられるのである。