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第四章 実証

【9】

いくら「好きだ」「この人しかいない」と、思いこんでいても、本物の出会いかどうかは、私たち人間の尺度ではわからないものである。そのために世の中では、出会いが間違っていたために引き起こされる悲劇というものが非常に多い。

結婚とは、個人の枠を超えてマクロ的に眺めれば、家系と家系のミックスということができる。その両家の5代前からの生きざまが、結婚という男女の契りを通して、混合されることなのである。

これは、遺伝のことをいっているのではない。とはいえ、家柄のつり合いのことをいっているわけでもない。正味の血液の分配、いわゆる生きざまという〝記録の分配〟についていっているのである。

だからこそ、生半可な感情や情愛を過信して安易な結婚に走ってはならないのである。たしかに、若い人たちが、そのはやる気持ちを抑えきれずに結婚へ向かうのは、人情としてはよくわかる。しかし、自然には法則があるように、人間もその自然のなかで生かされている以上は、自然の法則にしたがわなくてはならないのである。

ほんとうの「出会い」に必要なものは、先ほど述べたように、その人がいていること、その家の徳が高いこと、そして、その家の生きざまに不安な要素がないことが大切な条件なのである。

ただし、残念なことに、それは人間の尺度では推し量れないのである。

とくに子どもに問題が出るというのは、親がいていない証拠であり、親が常識に振りまわされているか、もしくは親の出会いそのものが間違っていたことが、大きな原因としてあげられる。

「ともかく、すべて親が悪い!」

そう言って間違いない。

もちろん子どもといっても年少者だけを指しているわけではない。たとえ40歳の子どもであろうとも同じである。子どもに問題が出るのは、すべて親が悪いからなのである。

このようなことを断言すると、世間から総スカンを食いそうであるが、自然の法則であるからこそ、真実であるからこそ私は言いきることができる。

常識にしばられ、世間体を気にしていたならば、絶対に「天」のパイプ役など勤まらないだろう。「天」には、世間体もなければ、人間の尺度の常識もない。あるのは真実だけである。それがわかっているからこそ、私も〝大バカ〟を承知で、堂々と断言することができるのである。

子どもに関する話であるが、ずいぶん以前に、とんでもないお子さんをお預かりしたことがある。それはもうグレているとか、スネているとか、そのような形容では言いつくせないくらいのワルである。

とにかく、14歳にして、もういっぱしの極道気どりである。警察に補導されても、なんとも思わない。荒んでいるなどという段階を、ほとんど通り越してしまっていたといってよいくらいである。

その家庭はといえば、常識的に考えると、夫婦仲が悪いとか、甘やかしすぎたとかいった具合になる。あるいは、よくマスコミでいわれるような片親であるとか、常套句じょうとうくになっている親が大酒飲みであるとか、そのような荒れはてた家庭を想起するに違いない。

しかし、そうではない。常識的にあてはめてみたならば、そのような子どもが育つべくもないほどに、満点の両親であったのである。もちろん、常識的な採点では満点というだけにすぎない。

子どもは親の鏡というが、まさに子どもは親の後ろ姿を見て育つのである。表面的な紳士面などは、まったくわが子には通用しない。一見ちゃんとした家庭であっても、顔に出てはいないが、不満や憤りがありよろこびがいていないといった親のおもいの程度が、子どもには敏感に伝わるのである。

「わが子も誘惑、決して握ってはならない」

そう「天声」にもある。この両親は、わが子を握りしめていたのである。わが子が無茶苦茶なことをするたびに、心配ばかりが先に立ち、オロオロしどおしだったのだ。ましてや世間体もあることから、いちおうは親として意見するのだが、それ以上は怖くて踏みこめないでいたのである。

しかもこの子どもは、おもしろ半分に悪さをするといった程度ではなく、やることなすことが確信に満ちた悪さであった。将来どうなるのかと、親御さんが不安になるのも無理な話ではない。

その少年が、3か月ほどで、見違えるように変わった。なにも世間でいうところのいい子になったわけではない。まだまだ悪戯もするし、度胸もなかなかすわったものである。

道理というものが、それも常識のそれではなく、自然の法則に沿った道理がわかるようになったのである。要は、素直になったのだ。

だからといって、厳しく指導をしたわけではない。もちろん言い聞かせたのでもない。それでも、ここに集ってくる、真剣に生きようとする人々を見ているうちに、若い小さな胸の内で、何かが変わったのであった。

私はもう大丈夫と判断して、家に帰すとき、ひさしぶりに声をかけてみた。

「大丈夫か」

「大丈夫です」

「帰っても、ちゃんとやれるか」

「大丈夫です」

いたって簡単な会話である。クドクドした言葉は必要でなかった。そこには同じ人間として、通じるものがあったのである。

その子は帰っていった。しばらくは、またもオートバイを乗りまわしていたという。

ではいったい何が変わったのか、と思われるかもしれない。

じつは、その子を預かっている間に、両親が頭を取っていたのである。わが子を素直に受け入れられる両親に変身していたのだ。目には見えないけれども、家族が自然の法則に素直になったぶんほど、子どもは無軌道ではなくなっていく。いまでは、両親が他の子どもよりも頼りにしているというくらいである。

「親が立ちあがらなければ、子どもも立ちあがらない」

これなどは「親が悪い」という典型的な例である。親がまともすぎたり、常識にがんじがらめになっていると、子どもはそのおもいに耐えきれずにグレていく。また、無軌道な子どもにヒヤヒヤしながら接していると、子どもはそんな親を見透かすものである。

ましてや、説教はしてみるものの、親として、いや人間として自分に自信がないと、真剣に子どもにぶつかることができないために、どんどんナメられていく。そうなると子どもは取りかえしのつかないところまで突っ走ることになる。

子育ても本気が必要である。その本気とは、いかによろこびをかせて生活をしているかである。解決策はそれしかないのである。

ちなみに、その悪ガキ少年も、もう2児の父親である。この夏、家族4人で私を訪ねてくれたが、こんなうれしいことはなかった。3歳半になるという長男は、彼に似て暴れんぼうで、始末におえないといった様子であった。

しかし、彼は若いにもかかわらず、すでに親としての威厳を感じさせるものがある。そこには彼の両親のおもいと、親になった自分のおもいが重なって見えた。まさに、生きざまという〝記録の分配〟がそこにあったのである。

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