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第四章 実証

【10】

だれしも、どこかで人間の生命体の本体(「天」)の声を聞いている。

それは、予感などといったものではない。本心から素直になったときに、突然として聞こえてくるものである。

相談にみえる方のほとんどが、「福永法源先生の本との出会いそのものを驚いている」と、おっしゃってくれる。その出会いについて、

「どうしようもなくなっていたときだった」

「通るはずのない道を通ったときに手にした」

「そのときに必要としていた本だった」

など、それはさまざまであるが、これこそ、まさに「天との出会い」なのである。私たち人間同士の出会いがあるように、「天」と出会うことも、その人に必要とするためのものだったのである。いわゆる自然の法則が引き合わせたのである。

その人の歩んできた人生のなかで、生きざまのプラスとマイナスが拮抗し、マイナスが多くなる一瞬に、それでも素直なその人であったとき、自然の法則の判定によって「出会い」が成立したのである。

これは不思議でも、偶然でもない。

もしもそれが、個人としての福永輝義の本であったならば、どうであろうか。そのようなことは起こらないであろう。「類の法則」によって、また違った人種を集めてしまうことになるはずである。

しかし、福永法源の本は「天声」そのものであるからこそ、その出会いまでが劇的でさえあるのだ。もはや会うべくして会った。必要だからこそ、そこで本を手にしたのであり、その場所へたどり着いたのである。

そもそも、人生は「出会い」そのものである。男女の出会い、親子の出会い、人との出会い、仕事との出会い、事故との出会い、病気との出会い……。これらはすべて人生の出会いである。

そして、「出会い」をもたらすのは、その人の生きざまである。だからこそ、私はくどいほどに、生きざまの怖さというものを、ここに、こうして何度も繰り返し書き記しているのである。

私は先ほど「生きざまというものの影響はすさまじい」と述べたが、それはなにも天のパイプ役であるわたくし福永法源だけが、その影響を受けているのではない。人間であるならば、だれでもその影響を受けてしまうものなのである。

自分の生きざま、家族の生きざま、他人の生きざま、先祖の生きざま……。それはさまざまな生きざまが存在する。それらの生きざまは、いまの自分の生きざまに大きく影響を与えているのである。

もしも最悪の生きざまばかりがまわりにあったならば、それらは足を引っぱるように、マイナスのおもいを引き寄せてしまう。そのパワーは絶大である。いくらがんばろうとも、おいそれとは勝てない。いくらでもおもいを引き下げてしまう。

だからこそ、最高のおもいを全開にして、いていなくてはいけないのである。いて、実証を出さなくてはいけないのである。

ある人が、私にこのようなことを言ったことがある。

「そんなシンドイことまでして、生きたいとも、成功したいとも思わない」

と。そうではあるまい。「シンドイ」と感じるのは、その人がほんとうの人生を味わっていないからなのである。最高によろこびのあふれた生活を味わっているならば、「シンドイ」などという言葉は出てこない。

ましてや、人間はだれしもが、この自然の法則のなかで生きているのである。生命体である以上は逃れることはできないのである。逃れることができないのであれば、精いっぱいよろこびをかせて生きるべきであろう。

そのために、生きざまを切開して、ほんとうの人間に成ることを「天」が後押しをしているのである。ほんとうの人間とはいつもよろこびがいている。そこに実証も出る。

ここにいう「実証」とは、「答え」ととらえてもらえばわかりやすいだろう。その人のおもいが、「自然の法則」と一致したことによって、生活のうえに不思議とよい現象が起こる。これを「実証」といっている。

私の楽しみはなによりも、この実証の報告を聞くことである。「こういう体験をしました」というお便りを、毎日のように頂くが、このようなよろこびの声を聞くのは、私にとってなによりの薬である。

では、なぜ「答え」が出るのだろうか。

天に生かされていることを実感することによって、よろこびと感謝しかかなくなるからである。いわば、それ以上のない状態、〝最高〟の状態になることなのである。

「よろこびには、理由はない」

というように、よろこびに理由を付けているうちは、本物のよろこびとはいえない。それは一瞬にして消えてしまうものだからである。頭で納得している喜びは、頭がすぐに打ち消してしまう。

ましてや、よろこびは来るものでも、待つものでもない。もちろん頂けるものでも、降ってくるものでもない。よろこびは自分自身のなかにあるのだ。素直になれば、素直によろこびは自分のなかからいてくる。

しかし、素直になれない頭というものが私たちには付いている。要するに余分な知識である。これが邪魔をして、素直によろこびがかないのである。そのために頭を取り、生きざまを切開するのである。

頭が取れれば、プラスのおもいを刻む。プラスを刻めば、プラスの現実があらわれる。当然のようによろこびがいてくる。

自然の法則であるからこそ、その法則に沿えばだれでもがくのである。

とはいえ、このようなケースもある。

この方は、若い女性の方だったが、あるときに、

「修行を終えて、行を毎日きちんと繰り返しているのですけれど、いっこうに答えが出ないのです」

と、ふたたび相談にみえたのだった。私はいつものように、

「最高ですか!」

とたずると、

「はい、最高です。でも答えが出ないんです。友だちは後から受けたのに、赤い糸を見つけたとはしゃいでいるのに……」

と、またその女性が言う。たしかに、うきうきしていているように見えるが、頭を取っても、まだ頭で計ろうとしているのがよくわかる。その女性にとって、よろこびも計算のうちということであろうか。

その女性には、まだ見えていないのかもしれない。いまそのままで、「なにかこうよろこびがいてきている」という、現実が見えないのだろうか。そうしている間も、片時も休むことなく、どんどんプラスのおもいが刻まれている現実がわからないのであろうか。

感謝のお手紙のなかにも「私のような者の体験なんて小さなものですが……」と、遠慮しながら書いている人もいる。しかし、毎日のように、答えは出ているのである。実証は毎日出ているのである。

よろこびに小さい大きいはない。いまを精いっぱいよろこべる自分があれば、それは最高のいまなのである。答えは捜すものではなく、かせることにある。いまここに生かされている時間に最高のよろこびをかせて生きられることは、億万円にも代えがたいことと知るべきである。

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