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第五章 法源

【1】

朝焼けの日は雨になるという。いつだれが発見したのかわからないが、素直に天空をあおげば、必ずどこかで自然は答えを差し出しているものである。

もちろん大自然の懐に身を置かなくても、それは感じとることができる。たとえ大都会のビル群のなかにあっても、自分のなかにある大自然に耳を傾ければ、語りかけてくるものを感じとることができる。

天のパイプ役という重大な役割を担って孤軍奮闘する私も、ときとして小さな迷いに遭遇するときがある。やはり生身の人間である以上、なにかの拍子に、フッと気の抜けるときがあるのだ。

しかし、私はそのようなときに、必ず、自分の胸に手をあてる。

目を閉じ、てのひらから伝わってくる心臓の鼓動を心から楽しむのである。そこには「ドクッン、ドクッン」と相変わらず元気に生きている仲間がいる。私が小さな迷いに陥っているときでも、黙々と脈を打ってくれているのである。

「ああ、いまもこうして生かされているんだ」

そんな素直な気持ちが私の心のなかにいっぱいになる。ありがたさと感謝が全身に染みこんでいく。生かされていることのよろこびが、より増してはらの底からいてくる。そうおもったときには、もう私には小さな迷いなど微塵もなく消えている。

そのときから「がんばらねば」という素直ないつもの自分に戻っている。なにはともあれ、立ちあがって「天意」のままにるしかないのである。それが生かされていることの恩返しであるからだ。

さて、はじめての天声が私をつらぬいた日から、私は毎日午前6時と深夜12時に天行力てんぎょうりきを送っている。これは16年間(本書初版当時)、一度も欠かすことなくっている。また、同時に、天行力てんぎょうりき手帳を持つ方全員に、私のおもいも向けている。いわばおもいによる会話であろうか。

その日によって、その会話も違う。なぜならば、天行力てんぎょうりきがすうっと通る人もいれば、なかなか通らない人もいるからである。

天行力てんぎょうりきの通りのよい人は、私のおもいもざわつくことがない。心地よい振動となって返ってくる。ところがなかなか通らない人の場合は、水面に波風が立ったようなざわつきが返ってくるのである。

「ああ、いったいなにをそんなにクヨクヨしているのだろう」

「なにをそんなに悩んでいるのだろうか」

「まだ、自分を握って、マイナスを刻もうとするのだろうか」

そう声をかけたくなるほどの衝動に駆られることもある。これは天行力てんぎょうりきを向けると、一人ひとりのおもいの状態が手に取るようにわかってしまうからである。

「さあ、立ちあがって、夢や希望を吐きなさい。ただただ繰り返し、徳積みの道を歩みなさい」

私は通りのよくない人たち一人ひとりに、そうしたおもいを向けている。このおもいの会話にふれて、また元気な自分を取り戻す人は多い。頭を取ったからといって、まだまだ自分の生きざまに振りまわされて、おもいを下げてしまう人もいる。しかし、これも生身で生きているかぎりは、避けられないことである。そのためにも、日々の「行」は、欠かすことはできないのである。

とはいえ、自分の「生きざま」に振りまわされてしまうのは、私にも経験がある。

昭和59年のことである。38歳になっていた私は、『なぜ金持ちになろうとしないのか』『億万長者になる法』という本を立て続けに出版した。この2冊とも、たいへんな反響を呼んで、ベストセラーにも入った。

タイトルだけ見れば、なにやら金もうけのノウハウを満載した「金持ち指南」の本に見えてしまう。実際のところ、そうとらえていた人が圧倒的多数ではなかったろうか。

しかし、読んでみたならば、その中味はまったく違う。そこには、数字がない、算術もない。利率のことや投資対象の選び方といった項目などもいっさいない。

「なんだ、これは億万長者とまったく関係ない本じゃないか」

と、思った人もいたことだろうと推測する。このようなストレートな本の題名は、これまでなかったこともあって、注目を集めたことはたしかであった。しかし、億万長者といえば金もうけのことだと短絡的な思考になってしまっている世間に、私は逆に驚かされたものである。

さて、この出版と前後して、

「億万長者養成・器づくり特訓を行え」

という「天声」が出た。

この修行こそ、その後に続く修行の第1弾であった。人間完成のための修行である。

「その定めは、5万円以上」

と告げられた。

当時の私は、5万円と聞いて、飛び上がるほど驚いたことを覚えている。

「これはどういうことなのか……」

と、妙に浮き足立って、あわてふためいたものである。だいたい、1泊2日で5万円ともなれば、修行生のために用意する料理も宿泊施設も、それにふさわしいもてなしをしなくては失礼だろう、などと勝手に考えこんでいた。

要するに、34歳までの私の生きざまがそうさせていたのである。よせばいいのに、私はまた頭の中で計算を始めていた。これは「三法行さんぽうぎょう」「御法行ごほうぎょう」の定めが示されたときと同じ状態であった。

いまでは懐かしい笑い話であるが、当時はそれこそ真剣に、「食事は懐石料理で、宿泊は一流の宿にしないと、誰も納得しないのではないか」と考えていたものである。しかし、そうした勝手な計画を立てていた私に、「天声」がすぐさま下った。

「ばかもの! おまえは何を考えているのだ。これは特訓料ではない。おもいの定めだ。その人の命の代わりだ!」

なさけないことに、私は自分の生きざまによって、「天意」を推し量ることもできなくなっていたのである。しかし、それに続く「天声」によって、私はようやく「天意」をはっきりと理解したのだった。

ここにいう「5万円のおもいの定め」とは、物々交換ではない。その金額で物を差しあげたりサービスをするといった類のものではないのである。

いわば、それを差し出すという「おもいと決意」に、大きな意味が隠されているのであった。自分の人生を変えるおもい、その決断を示すための貴重な金額なのである。その行為は人知で推し量れるものではない。その人が真剣に自分自身を変えようとしたときに、絶対に必要なおもいの定めであったのだ。

これは私個人が考える領分ではなかった。少なくともそこに「私」が入りこむ隙間などないのである。すべては「天」におまかせすることであった。

よくよく考えてみれば、5万円とはいえ、ぜいたくな食事をし、高級な旅館に泊まったならば、それで終わりである。しかし、この器づくりに参加した人は、自分の生きざまを変えるという、もっと大きな宝物を得ることができるのである。

その宝を金額に換算することは絶対にできない。しかし、それによって、その人が何億円を出しても買えない宝の持ち主になることができる。いわば、億万長者としての器を手にすることができるのである。

私は計算をやめた。そして、ごく普通の修行会場を準備したのである。

修行の修了時、参加した人々の目はキラキラと輝いていた。「天」に間違いなどあろうはずがなかった。なんという素晴らしい実証がもたらされるのかと、私はあらためて「天」の偉大さに驚き入ったものであった。

「これが、おもいを定めた人の瞳なのだ。ほんとうのよろこびに目覚めた人の証なのだ」

私の胸はおどっていた。私はこのとき、法源としての活動、人間の生きざまを正す活動のなんたるかを自覚し始めていた。

《 目次 》