第五章 法源
【4】
生身の人間である以上、私にも誘惑はある。
それは、「ほどほどにやったらいいのに」という、人の声である。
たしかにそうすれば、誤解されることもないだろう。一瞬、それが正論にも思える。しかし、「ほどほど」にやっていたならば、「天」に
とはいえ、「
そもそも、私たちを生かしている心臓には、体みなどない。本人が落ちこんでいようが、泣いていようが、もくもくと鼓動をうち鳴らしている。この休むことなく打ち続ける鼓動の「生きるリズム」こそ、私たちに必要な生き方なのである。
自然の法則には、中途半瑞は
この人生のなかで、もっとも恐れなくてはならないのは、「ほどほどに」といった声である。この人知こそ、私たちにとって、もっとも危険な誘惑である。
さて私は、毎週1回、野宿をしてきた。
それは季節にかかわりなく、
季節によっては、蛇やあぶや蚊がたかったりとたいへんなときがある。あるいは蟻が列をなして、首筋を
しかし、冬場はさすがに寒くて、眠れない。厚着をしてなんとか暖をとっているが、それでもなかなか寝つけないことがある。
だがそんなときでも、朝のすがすがしさは格別である。これを味わうために、野宿をしているようなものである。その素晴らしさは言葉ではあらわしきれない。
まず、一晩で、身体が洗われたようになって、気力が充実している。1週間分の疲れが取れる。これだけでもやった価値があるというものだ。
しかし、ほんとうのところは、目が覚めると地球を背負っている自分を確認できるという素晴らしさであろうか。まっ正面から、天に対峙している自分。その
もしも、こうしてリフレッシュしなければ、たとえ超
それは、ただただ繰り返し
「人生は、上映している今よりも、撮影している今が大切だ」
と「天声」は伝える。まさに私たちは、毎日の生活を撮影し、それを上映している毎日なのである。それならば、よろこびに満ちた毎日を撮影し、よろこびに満ちた上映を楽しむにこしたことはない。
私たちの「生きざま」というものは、その人がこれまでにロケーションをしてきた
わかりやすくいうならば、ブツブツ文句をいって生きていたり、不満だらけで生きていると、その
たとえば映画は、撮影をしてから上映である。その逆は絶対にありえない。これは自然の法則であるからだ。しかし、私たち人間というものはなまじ頭というものがあるために、上映してから撮影するといった不自然なことをやっている。
要するに、いまの最悪の現実をつくったのは自分でありながら、その現実に嘆いているといったようにである。これはまったく、自然の法則に反した行為なのである。
つまり、フィルムでもある
しかし、それがなかなかわからない。
勘違いしてほしくないのは、4泊5日の行は、問題を取るところではなく、二度と問題を必要としない人間に成るスタートなのである。
本来、生きざまは簡単に修正することができない。
40歳の人の生きざまの修正は、同じく40年の歳月を要する。しかし、それでは人間完成を成しえないで人生を終えてしまう人がほとんどになる。
そこで、この最後の救済の時代に、天声によって、この地上に
どのような人であっても、フィルム(
たとえ残り時間がわずかであっても、よろこびの