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第五章 法源

【7】

修行といっても、決して肉体をいじめ抜いたりの、いわゆる難行苦行をるわけではない。だが、この修行で何がもっともたいへんかというと、自分に克つこと、自分の生きざまに克つことなのである。自分を変えるということは、生まれ変わるということである。それは出産と同じであろう。生まれるためには、産みの苦しみも当然ある。それを乗りこえられなくては、自分を変えるなどということは無理な話である。

とはいえ、「天」は人間ならばだれでも通過できるように、ちゃんと指し示してくれている。それを超えたならば、これまで味わったことのないような歓喜のままに、修行は進んでいくようになっているのである。

ところがこんなケースもあった。修行の最中に、

「よそでは、〝どうしたの〟と優しく聞いてくれるのに、ここは厳しすぎる」

と不平を漏らすのである。二十歳になったばかりの若い女性である。

その「よそ」が、どこなのかは知らないが、そのようにスネている娘を目の前にしたなら、ほんとうの親ならば、「なにを甘えているか!」と叱責くらいはするであろう。本気ならば本気なほどに、その叱責も厳しくなるものである。

それは決して憎いからではないのである。人間として「ちゃんとしなさいよ」ということを、身をもって伝えるしか、人間に成る方法はないからである。

たしかに、甘ったれの人間には激しすぎるかもしれない。それでも、終わった後の「よろこび」の顔を知っているから指導ができるのである。その関門を突破すれば、すべてが変わることがわかっているから、本気で指導することができるのである。

そうでなければ、だれが本気で世話をするだろうか。この修行は、「天声に沿ってり通せば必ず答えが出る」ということを知っているかられるのである。

そのときだった。近くにいた年配のご婦人が、

りなさい。ただ、るの」

と厳しい口調で、その女性に伝えた。ご婦人はその女性の母親ほどの年齢である。きっとご婦人はその女性の母親のつもりで言ったのであろう。そして、言われた女性は、自分の母親に言われたような気がしたのであろうか。コックリとご婦人に向かって頭を下げると、素直に黙々と「行」を始めたのである。これもまた、必要な出会いなのであろう。その効果があってか、2人とも修行を無事に終了したのだった。

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