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第六章 救済

【3】

候補地が決定すると、「天声」はすぐに、その土地に「天地堂」という名の建物を建設するように命じてきた。どのような構造の建物にするかといったことや、内装に関するこまかな指示も「天声」から伝えられてきた。

天声村の構想は素晴らしいものであった。しかし、いますぐという建物の建設に対しては、その意図がつかみきれないでいた。

「なぜに、このような立派な建物がいま必要なのだろうか」

と私は自問した。もちろん「天意」のままにればいいのである。個人的な意見は必要ない。そうわかっていたので、私はさっそく、建築会社に建物の構造を説明して、それにかかる費用の積算を依頼した。

半月ほど待っただろうか。とにかく、「天声」で示された概要どおりのままに見積もっていただいたのであるが、届けられた見積もり額は、なんと総額で7億円という巨額のものであった。

7年目にして、7億円……。その偶然にまた驚いていた。しかし、ほんとうの驚きは金額の大きさである。そのとてつもない金額に、私は躊躇ちゅうちょした。

それ以上に、私には建物に対しての必要性をあまり感じていなかったこともある。この大自然の懐のもとで、富士山をあおぐ野原こそが、天声村にふさわしいなどと、勝手に考えていたのであった。

それに、みなさんが命がけで定められた「おもいの定め」を使う以上は、もっと他の有効なこと、たとえば、出版物や三法行さんぽうぎょうの案内をつくったほうがよいのでは、などと思ったりもしていた。そのほうがみなさんの「徳」につながると思っていたからである。

ところがである。そのような考えに浸っていた私に、

「なにをグズグズしている。さっさと天地堂をつくりなさい。つくらなければ、最後の救済事行じぎょうは進展しない」

と、「天声」から厳しいお叱りが下りたのである。

その言葉で私の決意は定まった。7億円のおもいの定めである。るしかない。もう私の足は天地堂の建設に一歩踏みだしていた。

工事を依頼し、天地堂の建築が始まった。

天声村一帯や天地堂の地下に、みなさんが納められた「行」を敷きつめていった。そのことで基礎工事の方に反対されるというハプニングもあった。しかし、これは「天」との約束ごとであると説得し、工事を進めていただいた。

私は「天声の間」に、天納されていた一人ひとりのおもいのこもる「法説御法行ほうせつごほうぎょう」や「御法行ごほうぎょう」や「三法行さんぽうぎょう」を、「天声」の指示にしたがって収めていった。それは、この地が天行力てんぎょうりきで充満するようにという「天」の優しさであった。

建立は、昭和63年3月21日。第1回天声開説講演会の記念日であった。この日、全国から行者さんが集まって、盛大なお祝いを行った。

やがて、天声村の存在が、行者さんにとって、大きな柱となって広がっていった。それにつれて「天声」のいう「救済事行じぎょう」が、目に見える形となっていった。一人ひとりの「おもいの定め」が、こうやって次の人が人間になるための館になったのである。

そして、みなさんの「徳」につながるほんとうの「おもいの定め」の使い方とは、私個人の感情ではないことがよく理解できた。「天声」どおりにしたがって、そのままるしかないことを強く強く感じたのである。

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