第六章 救済
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私たち人間には、感情というものがある。これを理性で押し殺すことが、これまでの絶対的な教えであった。たとえば好き嫌い、うれしい悲しい、怒る笑うといった喜怒哀楽をなるべく抑えて、心静かに生きることが理想であるといわれてきた。
この考え方は、現在でも常識として通用している。
とくに宗教においては、禅宗の坐禅などが代表的であろう。心を静めて深く瞑想をすることが人間性を豊かにしてくれるという。たしかに、それはあるかもしれない。しかし、それは、自分自身の頭の中の納得でしかない。
坐禅をしたまま食事はできないし、働くこともできない。要するに、坐禅が終わってしまえば、また元の自分に帰るだけである。ましてや、人里離れた山の中でいくら修行をしたとしても、都会でたくましく生きられなければ、修行の意味がない。
私たちは人間である以上、人間の住むところで暮らすのがあたりまえである。山の中で独り暮らすなど、不自然きわまりないだろう。それこそ一人芝居でしかない。
しかし、「法の華」では、まったくその反対である。
人間であるがゆえに、修行も町中で行う。ましてや、感情は押し殺さない。これも反対に、大いに自由に
これが本来の人間の姿だからである。
まさに常識的な目で眺めたならば、非常に奇異に映るかもしれない。しかし、常識程度の尺度では、救済
しかし、これは予想がつかないのではなく、人々の
昭和64年1月6日午前2時のことである。
「この地球の人類の2で割ってプラス1人の人間が、
という「天声」が告げられた。
人類の人口の2分の1プラス1人。
膨大な人数である。その時点でいえば、50億人の半分足す1人という数である。それが、救済だと示されたのであった。
当時の私には、とてつもなく大きく、具体的すぎる「天声」であると感じたものである。しかし、いまではなにも悩むことなく、ただただ「天声」の示すままに歩めばよいことを、痛いほどわかっている。
それ以来、救済の速度は加速し、目に見えてさまざまな出来事が重なるようにして起きていた。あるいは前述した仏舎利ではないが、そうした目に見えない力が強力に後押しをしてくれるようになったのである。
このような現象は、16年前には考えられないことである。同じ予想のできないことであっても、震災や戦争というマイナス現象とはまったく正反対のものである。これは救済というプラスの
平成7年4月5日、東京・国技館で、第1回「あさなる
「本年3月21日より、空海の生命体がこの救済
というものである。おそらく日本人であるならば、この名前を知らない人はいないだろう。密教の極意「三密」を説いたあの弘法大師である。法源誕生のときにその姿を光の中に見て、お祝いの言葉を項戴してからは、私の意識にはついぞ上ったことがなかった。
しかし、この私たちの救済の
その救済の加速度は増すばかりで、そうした出会いにおいても、急激に、さまざまなご縁で結ばれていった。その不思議なご縁は、波動の輪と人の輪によって、世界に向けて広がり始めてもいたのである。
天声村にはいつしか、常識では考えられないことが次々ともたらされた。
空海の遺品が加わると同時に、御聖体(キリストの遺骨)が天声村にもたらされたのである。さらに、2度目の仏舎利拝受、ブッダガヤ菩提樹の寄贈と……。天上界の波動としか言いあらわしようのないことが続いている。
また、地上界においても素晴らしい出会いが急激に増えていた。
環境雑誌を出していたことから、サッチャー女史にお会いして、そのことが縁となってゴルバチョフ氏とも会談した。さらに、ローマ法王ヨハネ・パウロニ世、マザー・テレサ女史など、素晴らしい出会いにつながっていった。そのような方々に、私は「天声」を、短いメッセージとして伝えていった。そのお返しに、メッセージや、励ましの言葉、そして再会の約束などを頂いた。
さらに、「天声」と地球環境の解決法をお伝えする舞台として、ローマ、インド、中国でと、だんだんと世界の大きな場へ押し出されていくことになっていった。
この現象は不思議な出会いというしか、他に言葉が見つからない。
また、コツコツと書きためていた「天意」の環境提言を英訳してもらって、さまざまな人に送ったりもしている。だが、こうした成果は、なんといっても、行を積む方々の
まさに
そして、「超法行力リング」も誕生した。経験を経るにつれて、生きざまの影響を受けないようになった私であるが、行者さんたちもこのリングを手にして、他人の生きざまを吸わなくなってきている。
他人の生きざまの影響を受けないで、
すべて「天声」のとおりにしたがっていけば、天の青写真が示す道を歩める。そして、その道は救済につながっているのである。