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第七章 超宗

【2】

しかし、教習所と違って「法の華」の場合は、多くの人にとっては、「最高」とだけ言っているおかしな団体にしか見えないだろう。

こちらは自動車と違って、理論理屈が無いからである。

私たち人間は、カギを差しこんでまわせば、すぐに動くというしろものではない。勢いをつけて自分自身で動かなくてはいけないのである。それも人生という長距離運転となれば、理論理屈で動かせるものではない。動いたとしても、すぐにエンストを起こすのが関の山である。

えてして、人間とは「徳」や「実証」よりも、「知」を優先してしまう。知ったところで動くわけではないのに、勝手な理屈で作りあげたもののほうが、なにやらありがたい感じがするのである。

たとえば、生活がデタラメで家庭もめちゃくちゃなのに、理詰めで理解しないと何ごとも納得しない人がいる。まさに無免許運転で人生道路を走りながら、自動車の構造を読んでいるようなものである。これではいくらでも事故は起きてしまう。そのような無謀運転は、わたくし福永輝義の34年間の体験で、もう充分であろう。

ずいぶん昔の話である。何度か講演会などで発表しているので、耳にしている人も多いかもしれない。

ある日のこと、街頭に出て修行をっていたときである。なにか知らないが気になる人がいた。小さな間口の工場の中で、独りポツンとつまらなそうに機械をまわしているのである。私は近づいて、

「最高ですか!」

とたずると、ムスッとした顔を向けた。まるで夜叉のような形相である。私が写経らしきものを持っているのに気づいたのか、またムスッとした顔で、

「この世に、神も仏もあるものか」

と、吐き捨てるように言った。そして、

「一生懸命やれば、必ず成功する。そう教えられて上京したんだ。食事も寝る間も惜しんで働いてきた。その結果が、心臓病を患い、家族に逃げられ、従業員も辞めて、借金だけが残った。これがオレの人生なのか。まったく運が悪い」

と、まるでひとり言のように、機械をまわしながらブツブツと話すのだった。

その人にとっては、納得のいかない人生だったのであろう。たしかに、一生懸命やった汗と血の結晶がいまの答えでは、納得できまい。それこそ、先見の明がなかったのか。要領が悪かったのか。あるいは運が悪いのか。または、資金が無かったからか、それとも、人に恵まれなかったからなのだろうか。

理屈好きな方ならば、ここから何かを探して、自分を正当化し、無理やり納得してしまうのであろうが、いくら理屈をならべたとしても、いまのこの答えが変わるわけではない。

要するに、「徳」がないのである。その生きざまの悪さが、いまの現実をつくり出していたのである。ひと言でいえば、「よろこび」がないから、「よろこび」のない結果が出ただけなのである。

私は言った。

「最高じゃないか。人間に成るチャンスだ、まだ間に合う」

その言葉を聞くと、主人は、涙を流していた。

機械から手を離せないまま、流れおちる涙を拭くこともせず、ただただ泣いていた。そこにすべての生きざまがあらわれていた。きっと、つらい体験がありすぎたのであろう。いくら打ちのめされても、この人は立ちあがったに違いない。それにもかかわらず、さんざんな目にあってきたのであろう。

そしていつの間にか、よろこぶことさえ忘れてしまった生活になっていたのである。

決して、グチを聞いてくれる相手が欲しいのではなかった。理解者が欲しかったのではなかった。こうして、自分の親に代わって、きっぱりと真実を言ってくれる人を待っていたのである。

苦虫をかんだような暗い顔になってしまっても、やはり人間として、ほんとうの人生を歩みたいのである。自分自身の生命体が呼びかけてくる人間の使命というものに、出会いたいのであった。

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