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第七章 超宗

【3】

自分の生きざまというものは、なかなか自分では気づかないものである。

たとえ人に指摘されても、「そんなものかな」と他人ごとのように聞きながしてしまうものである。それでいて、「人間とはいったい何だろう」などと、偉そうに本などを持ちだしてきて考えこんでいるのだ。

それこそ、よほどインパクトのあることでも言わないことには、ふり向きもしない。

私の出版する本は、題名から内容まで、「天声」にもとづいたものにしているが、それだけにインパクトのある題名が多い。これは一種の「天」の揺さぶりである。その人の生きざまを知らせて、目覚めさせるために、おもいきり気になる題名になってしまうのだ。

これが誤解を生む土壌となっているのであろうが、そのインパクトのある題名によって本を手にし、その出会いから救済された方は多い。もし本を介しての出会いがなければ、その人々は、苦悩のなかで人生を終えることになっていたのである。

とにかく、「天声」のやることは、人知では計りがたいことばかりである。しかし、それが必ず〝実証〟として答えを出すのであるから、これも驚きである。表面的には大バカに見えても、その実、ちゃんと答えの出ることを知っていらっしゃるのである。

もちろん、インパクトのある題名の真実を理解する人もいれば、まったくわからないまま終わってしまう人もいる。ここが救われる人と救われない人の別れ道である。

昭和59年に『億万長者になる法』を上梓したときのことである。大阪の講演会で、このようなことがあった。

その講演会場は、証券会社のホールということもあって、参加者の大半は事業にたずさわっている方たちばかりであった。背広をきちんと着こなし、開演前にはすでに席について待っている。

私は控室の横から、その光景を眺めていたが、なにかいつもと様子の違うことに気づいたのである。みなさん全員が、電卓やそろばん、ぶ厚い書類などを長机の上に用意しているのである。

どうも私の本を読んできた様子がない。どうやら「億万長者」の題名をとり違えて参加しているようである。題名にひかれ、本を読んで、それで参加してくれたならば、講演の意味も理解してくれるのだろうが、これでは講演のしようもなかった。

しかし、参加者がそのような人ばかりだからといって、私の講演は、「天声」のままにマイクを通して、お伝えするしかない。それこそ内容は、いつものとおり、「人間とは、何か」「お金の本髄とは……」といった救済に関することばかりである。

参加者のみなさんはあ然としている。経済論の一つもないから、腹を立ててノートを放りだす人もいれば、時間の無駄とばかりに昼寝をきめこむ人もいる。しかし、それとは逆に、はじめての「天声」にふれて、うなずきながら真剣に聞きいっている人もいた。

終わってみると、約半数の人たちが、「生きざま切開」の「行」に興味をもってくれたのである。まったく予想外の講演でありながら、素直に心を開いてくれる人と、金銭以外に興味のない人に別れたのである。

この差は大きい。いわば、ここが救われる人と救われない人の別れ道なのである。

さて、私は「足裏」に関する本も出版している。足裏にはその人の状態があらわれていることを「天声」によって告げられた。仏教にも「足裏教」というものがあるが、それは釈迦の足裏が基本になっている。

また、はじめての「天声」のなかに、「法の手をもって全人類を救い、法の足で法の道を歩め、全人類に法の華を咲かせよ」という、足裏を示唆する内容がすでに存在していたこともたしかである。

この足裏の相に対して、世間では手相などと混同して占いと勘違いする向きもあるが、これまで「天声」が示したものに、世俗的な意味の含まれたものはいっさいない。すべては救済事行じぎょうに結びつくための導きとなっている。

なぜに占いではないかといえば、そこには解決法が示されているからである。一般的に知られている占いは、予知はすれども解決策というものをもっていない。いわば不安や期待の垂れながし状態である。

たとえば、テレビなどで流している星占いなどは、何月生まれの人は、仕事の勢いが落ちているといった後に、外出は控えたほうがよいといった答えですませている。そのようなことを信じて、営業マンの人が外出しなくなったならば、これは大問題であろう。

いずれにせよ、こうした占いの類は、自分自身の生命力のすごさ、素晴らしさを知らないところから始まっている。少なくとも「法の華」には、私たち人間の生命力を否定するものはなにもない。

また、足裏の診断(占いとはいわない)は、特別な技術がいるわけではない。過去があらわれている部分と現在があらわれている部分、そして未来を示す部分といった見方はあるが、ほとんどは足裏の感触や温かさ、全体的な状態といった、あたりまえのことが基本となっている。これはだれでもわかるものである。

いわば、足裏は隠されたもう一人の自分の姿をあらわしており、その人の外見だけではわからない部分を足裏から判断して、その生きざまを診断しているのである。

不思議なもので、足裏には自分の「生きざま」、5代前からの先祖の「生きざま」といったものが、そのまま出ている。たとえば足裏に光沢のない人は、やはり人生も光っていない。張りのない人は、張りのない生活をしている。ザラザラしている人は、生活が荒れている。まさに足裏は、そのままをあらわしているのである。

足裏を見させていただいて、私はさまざまな真実に出会っている。いくら外見を飾りつけても、足裏を拝見すると、100パーセントその人の本性が見えてしまうからである。それは回数を重ねるごとに、はっきりしてくる。

もちろん、生きざまの悪い人というのは、前述したように、自分のことに対して聞く耳を持ちあわせていない。都合のいいことに対しては、「ウン、ウン」とうなずくことはあっても、都合の悪いことになると、嫌な顔をして否定するのである。

これを機会に、その悪い生きざまから目覚めさせてやろうと思っても、本人がそのような態度では、せっかくのチャンスも生かされないことになる。

ある日のことである。某雑誌の取材でタレントさんの足裏を見る機会があった。けっこう有名なタレントさんだということであったが、ゴマスリなどはいらない、私は見たままを素直に伝えるだけであった。

「だいぶ、歪んでいるね。水虫も多い。かかともヒビ割れている。つまり、甘ったれ」

言われた当人は、苦笑いをしてごまかしているが、お付きのマネージャーさんは、もうハラハラドキドキものである。

「女ぐせが悪い。いい出会いがあるのに、目移りする」

つれてきた雑誌記者は、面白そうだと喜んでいる。有名人であろうがなんであろうが、そのポンポンと出てくる言葉に、内心「そのとおり」とうなずいていたのであろう。

「あの、将来はどうでしょうか?」

水虫やかかとのヒビ割れだらけの汚い足裏を差しだして、自分の将来の問いかけもないだろうが、そこはこらえて、

「結婚線は消えてないし、他の線も貧弱。ただ、プロ根性だけは天部にあらわれている。将来といっても、まずこの歪んでいる足をなんとかしないと……」

と私は答えた。とにかく、本来の自然の法則に沿った人間に成ることが先決であって、人気にしても、芸にしても、いっさいはその後の話である。まずは自分の「生きざま」に気づいてほしいと、

「足の形は悪くないのに、生きざまが悪い」

とつけ加えた。いくら取材だからといっても、自分のことならば真剣に聞いてくれると思っていたからである。しかし、ご当人にとっては、雑誌に掲載されて少しでも名前を世間に売ることしか頭にない。

それこそ、取材が終わってしまうと、あいさつもそこそこに帰ってしまわれた。

せっかくのチャンスでありながら、それを生かせない。しかたがないといえばそれまでだが、そのままの足裏では、いくら芸能界の頂点をきわめたとしても、その後に、地獄のような現実が待ち受けていることだけは、はっきりしているのだ。ちやほやされているのは、いまのうちだけである。

足裏は、自分の生きざまによって最悪な現実に苦悩する前に、少しでも早く気づいてもらおうという「天」の優しさから生まれている。足裏を拝見することによって、ほんとうの「よろこび」に目覚めた人は多い。なにはともあれ、最悪の状態に陥ってから、やっと気づかされるようでは遅いのである。

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