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第七章 超宗

【5】

私はつくづく〝大バカ者〟なんだなと思う。

世の中には、世間に吹いている風を予想して、うまい具合に帆を張ってスイスイと荒波を乗りこえてしまう人がいる。もちろん、先で何が起こるか知らないが、このいまという時間の枠のなかでは、上手に世間を相手に渡っているのである。

そのような強者が、勝ちほこったように、私にアドバイスをしてくれる。

「あなたね、もっと理論武装しなきゃダメですよ」

それも、親身になって言ってくれるのである。そのご好意には、掛け値なしにありがたいと思う。

しかし、「超宗」には、理論武装はいらない。

もし理論があるというのであれば、「行」を積む人には、答えが出る。らない人には、答えは出ない。それだけのことである。

「それでは、あまりにも芸がない。だれもついてこないですよ」

という人もいる。

いったい芸がないとは、どういうことなのであろうか。これまでの既成の宗教をやれというのであろうか。袈裟を着て、頭を坊主にして、それらしい寺院を建立して、お経でも読めとでもいうのであろうか。

たしかに、いわれれば、「法の華」は、既成の宗教とは違う。

それでは、キリスト教はどうなのであろうか。仏教はどうなのであろうか。その始まりは、既成の宗教からはみ出していたものではなかったろうか。

理論武装は、その後のことである。その始まりのときは、キリストも釈迦も、ただただ自分のなかからき出てくるもの(「天声」)を一人でも多くの人に伝えようと、自分の身体を粉にして法則を説き続けたのである。

この世の中で、本物の人生を歩むには、「天意」のままに生きるだけである。キリストや釈迦がそうであったように、私たちもキリストや釈迦がったように生きることなのである。その救済の方法が「人間法源」という形になって、「天」から示されたのである。その最後の救済事行じぎょうを「超宗」という。

ここへきて私たちは、人為による行為がいかに虚しいものか、さまざまに体験してきたはずである。公正であるべきはずの銀行が不正を繰り返し、監視するべき行政が非加熱製剤を放置して犠牲者を出すというように、さまざまな問題が吹きだしている。

しかし、なにもこれは、銀行や行政が悪いというわけではないのである。それにたずさわる人間の問題なのである。いわば、ドブに成れない人たちは、自分のことしか考えていないから、このような結果をまねいてしまうのである。

それもみなさん軒並み優秀な大学を卒業して、世間的にも偉い人ばかりである。そこに連なる人たちは、それなりの教養を身につけ、社会的にも高い信用を得ていた方ばかりなのである。

なぜに高い教養と信用をもつ優秀な人が、このような事件を引きおこしてしまうのか。まさに、生きざまなのである。生きざまは教養も信用も関係ない。低いおもいを引きずっている方なのだ。

「法の華とは霊や道徳、しきたりや恐怖を売るものではない。人間修行の場である」

と「天声」にあるが、「法の華」とは、よろこびをかせるところ、あたりまえをかせるところである。それを願わず、求めず、ただるところである。

これがおもいを変える「行」である。おもいが変わるから、生活も変わる。そこには、理論や理屈はなにもない。自然の法則のまま、ただあたりまえが出るのである。

このあたりまえをれば、銀行も行政もあたりまえになる。

もちろん、その人の生きざまというものがあるかぎり、そうは思っても自分は変えられない。しかし、そうした世の中だからこそ、「超宗」が生まれたのである。そのことに気づくべきときである。

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