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まえがき

世間のものさしで私を計ったならば、間違いなく〝大バカ者〟に映ることであろう。ある人は、そんな私のことを「不器用」という言葉で形容する。たしかに世渡りという面でとらえたならば、私は決して器用だとはいえないだろう。

人類救済を説く者であるならば、世の中が許容する一般的常識の範囲内で行動すべきだろうし、その浄財も万民が納得するところの金額を提示しておくべきであろう。だれもが理解を示すところで事を行っていれば、それがたとえ眉唾まゆつばな教えであったとしても、世間は黙って見過ごしてくれる。

もし私が悪知恵にたけ、自分の意志で現在の「超宗ちょうしゅう」をおこしていたならば、少なくとも世間から後ろ指をさされるような行為はいっさいしないだろう。宗教理論も儀式も無難なところで手を打ち、薄く広く信者を集めていたかもしれない。私とて、そのくらいのことは重々承知しているのである。

しかし、私がやらせていただいている超宗は、残念ながら人間が考えだしたものではないのである。すべては「天声てんせい」の示すままである。天声が示したことは、たとえ自分が納得できないとしても、それが答えのすべてとしてとらえている。そこには自分というものがない。

もちろん、世間から誤解を受けそうなことであっても、天声がすべてであり、それにしたがうしかない。その意味からすれば、この超宗は、私の意志などいっさい入らない、「天意てんい」にもとづくほんとうの宗教といえるだろう。

もし私の意志が入っているとするならば、少なくとも「頭を取る」とか「修行」などというみっともないフレーズは使用しない。もっと一般受けするカッコのいいネーミングを考案したであろう。

私が〝大バカ者〟と世間に映るのは、人知を超えた「天意」による行動を素直にとっていることにほかならない。少なくとも〝大バカ〟と映るくらいに、自分を捨てきれなければ、このような行動は絶対に取れないからである。その意味において私は、大きく胸をはって〝大バカ〟ができるのである。

この世でほんとうに人間を救えるのは、この〝大バカ〟である。なぜならば本気で人類を救おうとしているからである。みずからのプライドも名誉もかなぐり捨てて、本気で人類救済をしようとすれば〝大バカ〟をやるしかない。

世間から誤解をまねいても、それが確実に人類救済に結びつくものであるならば、私は進んで〝大バカ者〟になる。そのためならば世間からの批判を甘んじて受けようと思う。

本物の宗教は、人生に追いつめられ、出口を見失い、どん底であえいでいる者さえも絶対に救済できる力がなければならない。それは、人の意ではなく、天の意のなかにある。

さて、私には「天声」を聞く身と、生身の自分がある。その両方をいま生きている。今回はその立場から、「天」を著してみようと思う。

 

法 源

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