第一章 天意
【1】
私たち人間は何かを背負って生きているようである。しかし、その荷物が何であるのかわからないまま一生を終える者もいれば、その荷物を理解し、利用して人生を謳歌する者もいる。
私の場合はどうであろうか。いまこうして気づいてみれば、私個人の力ではどうにもできないような途方もない大荷物であった。だからこそ、個人の意志を頼りにできないことを知ったのである。
この自分の大荷物を無事に運びきるためには、「天意」に則して生きていくしかない。そう決心してからは、大荷物に押しつぶされることはなくなった。たとえ誤解を受けようとも、私は胸をはって生きられる。
なぜならば、「天意」に則して生きることは、「自分」という小さな世界で生きる必要がないからである。幸福もよろこびも繁栄も、自分という枠のなかで受けとめているかぎり、個人的な範ちゅうから抜け出ることはない。ましてや個人的な意識の相違は、争いの材料となったり、僧しみの材料に転化する危険性をはらんでいる。
そもそも幸福やよろこび、繁栄といったものは、個人的なものではないのである。もっと全世界的、全地球的、全宇宙的な問題なのだ。はっきりいえば、自分以上に他を高める気持ちが源いていなければ、完結しない世界なのである。
だが、これを理解する者、実行できる者は少ない。なぜなら、個人の視点から幸福やよろこび、繁栄というものを見ている者が圧倒的多数だからである。そのような人たちから見たならば、私などは、〝大バカ者〟でしかあるまい。
とはいえ、これを認識の相違とは思っていない。そうではなく「人為」と「天意」の差である。この差を埋めるには、「天意」であるだけで、「天意」にもとづいてみずからが実践実行するしかない。
いわば私の、〝大バカ人生〟の始まりである。
この〝大バカ〟を少しでも多くの人々に理解していただくために、今回は法則の解釈は極力抑えて、裸の私を正直に伝えていきたいと思っている。
私とて一介の人間である。それなりに苦悩してきた経過がある。生まれ落ちたときから法源であったわけではない。しかし、そこ(法源誕生)に至るまでの私の人生を知ることは、なにがしかのお役に立つものと思っている。